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「歴史の授業」 田島伸二さん |
広島県の山懐にある小さな町での思い出である。私が中学生の時の話だったから、何十年も前のことになる。その頃、私の在籍した中学校には屋内体育館がなかったので、雨天の体操の時間には通常の教室での自由時間に振替えられた。振り替えの授業は楽しかった。なにを勉強してもいい自由時間だったからだ。体操の担任教師の名前は「グンソー」といった。それは彼が兵隊にいたとき、「軍曹」の階級にあったからだ。彼の本名を呼ぶ者は誰もいなかった。彼は体操の振り替え時間には決まって、戦争の体験談を
生徒たちに話して聞かせた。だからいつの間にか、彼は「グンソー」という呼び名になってしまったのだが、彼は戦争での経験をまるで手柄話のように語った。 グンソーの話から、戦争の真実を生徒たちに伝えたい思いもあるようには見えたが、それよりも、好奇心が強く血気盛んな中学校2年生ぐらいの男子生徒たちに、自分が戦争の中でいかに勇ましかったかをおもしろく話したかったように思えた。今になってみると彼は戦争の話をしながらも、いろいろのことを生徒たちに伝えたかったのかも知れない。しかし彼が亡くなってしまった今となってはよくわからない。彼が話したのは、平和を作る話よりも戦争をする話の方がはるかに多かった。戦争そのものについてであった。グンソーは肌黒く、みるからに目玉も大きくいかつい顔をしていたので、生徒たちは、彼がいったいどのように勇ましい戦争をやってきたか、興味はつきなかった。僕たち中学生は夢中になって耳を傾けた。・・・・・
ー今日は雨降りだ。生徒たちは、グンソーが教室に入ってくると、まるで教室が割れんばかりの大きな声で、「グンソー、グンソー・・・・話をしてー、話をしてー」と、話をねだった。すると彼は、嬉しそうに見えながらもなにか躊躇しているようにも見えた。彼の態度から、「これは自分自身から好き好んで戦争の話をしたのではない、生徒たちに求められたから、わしは戦争の話をしたのだ」と言いたかったのかもしれない。グンソーはいつも戦争での体験談を身振り手振りで語った。
「わしが初年兵の時じゃった。わしが初めて人を殺したときのことじゃ。中国人の捕虜を処刑せよと命ぜられてのう。困ったようのう。そこでわしは捕虜を広いコーリャン畑に連れていって、日本刀で首を切ろうとしたんじゃ。じゃが日本刀は首に当たらず、肩に当たったので、捕虜は大声をあげて喚きながら逃げていった。人を殺すというのはすごいことじゃ。わしが捕虜を逃がしたということになると大変じゃけえのう。わしは必死でコーリャン畑の中を捕虜を追いかけていってのう・・・・捕虜は肩から血を流しながら、広いコーリャン畑の中を逃げ回ってのう・・そして最後にはわしが捕まえてコーリャン畑で中で射殺したんじゃが、わしが初年兵の時じゃった。」
ー敵兵の処刑について、グンソーは事細かに語った。おそらく彼は相当数の処刑を担当させられたのだろう。彼はそのときの様子を、黒板に簡単な線で絵を描きながら語った。
「軍人が処刑を行うときにはのう、囚人にまず目前に穴を掘らせ、その前に囚人を座らせるのじゃ。穴は全部自分で掘らせるんじゃ。処刑は日本刀で首を切り落とすのじゃが、首の皮一枚を残して切り落とすのが上手いやりかたじゃと言われておった。もう殺されるとわかってくると囚人も観念したように見えて、彼らがいったん「メーファーズ(没法師)とつぶやいたら、完全に死を覚悟したように見えたんじゃ。」刀を思い切り振り下ろすと、切断された首からは血がビューとものすごい勢いで噴出したんじゃよ。そしてその体を穴の中に蹴落とすんじゃ」
とそのときのその生々しい話をグンソーは刀で切り落とす格好をしながら事細かに語った。
なんともショックな話だった。
ー「市外戦のときじゃった、ときどき街角の路上で、敵兵とバッタリと鉢合わせすることがあった。そのときはお互いびっくりするもんじゃ。恐ろしいもんでぇ。すぐにどちらもピストルをを撃ち合ったときのことじゃっ。戦いは誰でも恐いが、お互いに向き合った時には、逃げ出さずに最初に少しでも早く勇気をもった方が戦いには勝つんじゃのう。わしは、そのときに逃げずにすぐに後ろから撃ったんじゃ。ピストルを撃つときは、こうやってピストルを頭の上からゆっくり下ろすようにして照準を合わすんじゃ」グンソーはピストルの撃ち方をゼスチャーでして見せながら語った。
ー「あるときわしは敵の視察を命じられてのう。斥候というんじゃが、その途中にわしが森の中で野糞をやっていたらのう、ふと背後の茂みがごそごそするので、なんじゃ、ろうかと思って股下から覗いてみると、なんとのう、2人の「中国兵」がわしの尻に鉄砲を突きつけているのを目にしたんじゃ。」グンソーは苦笑いをしながらも恐怖に満ちた目つきをした。
「あああ・・殺される!」とわしが思った瞬間、わしの頭髪はすべて逆立ったんじゃよ。ほんまじゃ。ほんまじゃ。髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。髪の毛が立つんでぇ。恐ろしいよのう!とグンソーは何ども何度も繰り返して言った。「わしゃ殺される!」と思ったんで、大便をしたままの姿勢で「ウオーーーーー」というような大声をはりあげていきなり立ち上がったんじゃ。すると、その声に驚いた敵兵は、あわてて逃げて言ったよ。ああ、間一髪のところでわしは助かったんじゃ。怖かった。髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。」
ー「南京の市街に入って行った時のことじゃ。ある民家で、きれいな中国女性を屋内で見つけたんじゃ。・・・・・女は日本への留学経験もあり、言葉も話せる知的で美しい女性じゃった。」グンソーはその女性が知的できれいだったことをしきりに強調した。おそらく会話もしたのであろう。そして言った。「じゃがその女性が他の日本兵に見つかるとのう、強姦されて酷いことをされてしまうというので可哀想じゃったが殺してしまったんじゃ、可哀想じゃった。」とグンソーが悔いているように語った。
中学生とは言え、まだ幼かった僕たちには、強姦というのは何を意味してのか、よくわからなかった。しかし、大人の世界には、子どもにはわからないような世界がたくさんあるようにも感じられた。僕にはある疑問が湧いてきた。なぜグンソーがその女性を殺してしまったのか、その理由がどうしてもわからない。よく考えてみるにグンソー自身が彼女を強姦したのではなかったのか、それを隠すために殺したのではなかったのか。他の兵隊から守るために女を殺してしまったとグンソーは言ったが、あれは嘘に違いない。グンソーが女性を強姦して殺したんだ。それを僕たちに伝えることができないために・・でもそのことは話しにしたいために語ったに違いない。その証拠にグンソーは、「戦争ではなんでもできる。戦争ほどおもしろいものはない」と言ったではないか?でもそんな恐ろしい酷い体験を平気で子どもたちに話せるだろうか?やはり彼は女を強姦していないのではないか・・・・いろいろ考えたが今となっては事実はわからない。
戦争中、グンソー自身が中国女性を強姦したという話は、何もしなかったが、彼の話しぶりからは、戦争中にはグンソーを含めて日本の軍人たちはどのような酷いことでも平気でやっていたということがよく伝わってきた。事実はどうであれ、真実を話せない体験が山ほどあるに違いない。
雨の日には、グンソーは決まって、戦争の話をした。そして時々思い出したかのように、「戦争は酷(むごい)いもんじゃ」といったが、そのあとには必ず「戦争ほどおもしろいものはない。戦争ではなんでもできるけえのう!」と断言した。・・・・・・そうか、これが日本軍が行っていた戦争の実態だったのだ。しかしこれは中学校での授業の中での話しだから、義理的に「酷い(むごい)とつけ加えたのだろうが、実際には職業軍人にとっては酷くもなんでもなく、戦争は彼らにとっては無限におもしろかったのではないかとも感じた。その当時、日本軍の食料は、すべて現地調達であったという。つまり中国の人々の食べ物を略奪せよと命ぜられていたのだ。わずかの食料で生きている人々なのに、そうした人々の食料をとりに行ったとき、どんなに残虐な行為が待ち受けていたことか。抵抗した人々はほとんどが殺されたに違いない。
しかし話の中に、中国大陸や朝鮮半島などで、日本軍が残虐な戦争を続けておびただしい人々を殺したことへの反省などは、微塵もなかった。今から考えてみると、普通の公立学校だったら、このような話も聞けなかったかも知れない。その学校には私立中学校で、定年退職した教師や満州帰りの教師などさまざまな職歴や人生体験を持った教師がいたからだろうと思う。
あるとき、その日は雨の日ではなかったが、突然グンソーが血相を変えて教室に飛び込んできた。そして教壇に上がって大声で言った。
「だれだ!だれかが今、人殺し!と叫んだ。出て来い!」と叫んだ。渡り廊下を歩いていたグンソーをだれかが「グンソー人殺し・・・・」と呼んだらしい。彼はそれを聞いて逆上したのだ。「だれが言った?おい!出て来い!おまえらは卑怯じゃ」
グンソーは教壇で大声を張り上げた。クラスの全員をまるで犯人のように睨み付けながら執拗に犯人探しを続けた。誰がその言葉を言い放ったのか僕たちは知っていたが、グンソーには何も答えなかった。
そういうことがあってからグンソーは、戦争については再び語ることはしなくなった。生徒たちもグンソーの話をもう聞きたくはなかった。人殺しの話はもう十分だったのである。私もグンソーの話を聞くのは好きだったが、彼の性格や生き方は嫌いであった。グンソーを人殺しだと感じていたからだ。しかし考えてみるに、その当時の日本軍人は、父も含めてすべてが「人殺し」を演じていたのだ。軍人とは、いかなることであれ命令を受ければ、情け容赦なく人を殺していた存在だからだ。女でも子どもでも。日本軍人たちは、どれだけたくさんの人々を殺してきたことか!それは朝鮮半島や中国大陸だけではなく、太平洋地域や東南アジア全地域でも同じことだ。すべてが日本の領土を拡張するためで人々の資産を奪おうというものだった。グンソーは自らの体験を語ってくれたが、ほかの人たちは黙して語ろうとはしない。誰も口を開こうとはしない。伝えていこうともしない。
日本と中国の戦争では、中国大陸だけで1000万人から3000万人の人々が殺されたといわれている。日本側の公式な計算でも1000万人以上は殺されているというのだから、いったい大陸で何があったか推して知るべしなのである。南京で虐殺された人々は30万人ではなくて、実はもっと少なかったかもしれない。しかし仮に10万人であったとしてもそれは異民族支配の中では恐ろしい数字として歴史に残っているのは事実なのだ。
この数字の検証は、中国と日本の双方でやっていくべきものであるが、しかし現在では30万人の虐殺は全く存在しなかったという論争にとどまらず、そうした虐殺自身が存在しなかったという動きが日本にはあるが、こうしたことを主張する彼らは戦争の実相を決して見ようとはしていていない。彼らは日本が起こした戦争を悪いとは思っていない存在だからだ。だからどんなに人々が殺されても、その数字を認めることは決してしない。彼らはどんな事実を突きつけられても平気で否定する人々なのである。恐ろしいことだ。
人間は完全には出来ていない。歴史の中で絶えず間違いを犯している存在だ。しかし侵略した事実をきちんと認めて、政府として謝罪することで日本人として歴史の中でより真摯な生き方ができるし、信頼し合うこれからの共同体を作り上げていくにつながる。1991年、私はユネスコの仕事で北京に仕事で行ったとき、たまたま戦争博物館を見学したことがある。その博物館は、展示品と言ってもほとんどが写真と新聞記事だけで構成されているものであったが、そこに展示してあった当時の日本の新聞記事に大きな衝撃を受けた。これは当時の毎日新聞の前身である東京日日新聞の実際の記事であったが、大見出しには実名で「南京攻略時に「百人斬り競争」を行った日本軍の将校の二人の発言が報道されていた。
この競争の模様は、1937年11月30日付けの東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって報道された。その報道によると、日本軍が南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)のどちらが早く100人を斬るか,の競争を行っていると報じた。東京日日新聞記事では、無錫−常州間で向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬ったと報じている。また、1937年12月13日付けの記事では、12月10日に記者と会った時のインタビューとして、すでに向井少尉は106人、野田少尉は105人の中国兵を殺害しており100人斬り競争の勝敗が決定できず、改めて150人を目標とする殺害競争を始めると報じている。
これは戦時中のことだから、新聞もかなり誇張して書いたかも知れず、(近年は虚報だと言う意見もあるらしく)事実であるかどうかはわからない。しかし当時の日本の新聞がこうした記事を掲載していたことを考えると、これに近い虐殺は当時、面白半分に、手柄半分に日本軍人によって行われていたことは容易に想像できる。
敗戦から60年が過ぎた今、戦争はまるで天災や自然災害と同じだったような感じで報道がなされている。敗戦国としてアメリカに踏まれた者の痛さとしての悲惨な「東京大空襲」や「広島の原爆投下」や「沖縄戦」のことは、TVでよく上映されている。しかしその内容はと言えば、ほとんどが反戦映画とは言っても「東京大空襲」や「広島の原爆体験記」など被害を受けた一般市民の視点だけであり、グンソーのように中国大陸や朝鮮半島で実際に「人を踏んだ者」や「人々を殺しまくった軍人」の体験談をする番組はほとんどない。
マスコミもあえてこの問題に触れようとしない。殺(や)られたということだけであって、殺(や)ったということは決してしない。要はうしろめたい体験はすべて隠そうとしているのだ。そして否定しようとするのだ。従軍慰安婦について、河野官房長官の談話の中での唯一の謝罪があるが、こうした談話すら否定しようとする動きが現在政府の中にある。これは本当に恥知らずで無責任な性格をよく表している。「文書がない」という理由で水に流そうとしているのだ。
考えてもみよう。中国や韓国の人々が、日本の戦争責任を口にするときには、彼らは戦争中、言葉で表現できないような、悲痛な体験をしてきているのだ。そして語り継いできているのだ。もしもあなたの家族が百人斬りの中の犠牲者になっていたら、もしもあなたの家族が強制連行で従軍慰安婦として働かされてていたら、もしもあなたの美田が強制徴収にあっていたら・・・・その恨みや辛さを永遠に語り継いでいくのは当然のこと。恨みや辛みは永遠なのだ。もし日本人が中国や韓国の人々から非情な仕打ちを受けていたら、それを後世忘れないのは当然だろう。
アメリカとの戦争では、沖縄を除いて、顔の見えない戦争(東京大空襲、原爆投下にしても人々の接した戦争は地上戦ではなかった)であったが、大陸では顔の見えるなまなましい戦争であった。しかし実態として、現代の日本人のどれだけの人々が戦争で行った「心の痛み」を深く感じながら、自らの国が、自らの肉親たちが行った残虐な行為を「慙愧の念」をもって振り返っているであろうか?そして語り継いでいこうとしているであろうか?「人の心の中に平和の砦(とりで)を!」という言葉があるが、平和を口にする前にまず戦争についての実態や事実を”きちんと時次世代に語っておく必要がある。そうでないと戦争は我らの世界から消えることはない。そして前世代のやった残虐な行為を背負って、次世代が育っていくのだから。
「なぜ日本軍は大陸に侵略していたのか?なぜ朝鮮半島を植民地にしていたのか?なぜ日本は満州国をつくっていたのか?なぜ多くの人々を殺しまくっていたのか?なぜ軍隊はいつも女性を強姦するのか?なぜ人間は物欲が余りにも深く他の存在を支配しようとするのか?
しかしこうした体験や考えは今や風前の灯になって消え去ろうとしている。みんな黙して語らないからだ。過去の体験をひたすらに水に流そうとしているのだ。沈黙のまま墓場まで持って行こうとしている。
ああ、歴史は必ず繰り返す。日本人は、被害者であった以上に加害者であったことを引き継いで伝えていかなければならない。人に踏まれたことより人を踏んだことを・・そう、戦争中、最も悲痛であったのは、被害者であったからだ。政治家がやったことを決して忘れてはいけない。そしてそれに追随して破局に陥ったことを・・・今日本では、今間違った歴史観が育っている。人を踏みつけてもなんとも思わないような歴史や、あったことでも存在していなかったように真実を覆い隠そうとする歴史観が広がっていっている。そうした中からは、決して正しい意味での”日本人の誇り”とか”日本人の愛国心”が育っていく訳がない。愛国心とは、国境を越えて世界中の人々を愛することができることをいうのだ。決して狭い人間観ではない。狭い国家観がどれだけ人間を閉鎖的で残忍な存在にしてきたか、近代の歴史を見れば一目瞭然であろう。愛国心は悪漢の最後の隠れがだという有名な言葉もあるぐらいだ。そして三流学者が自虐史観という名称をつけては、自らの行ってきた罪業を闇に葬ろうとしているのが現在の日本の歴史教育の流れとなろうとしている。そして再び、軍産学が手に手を取り合って、コンピュータを搭載した兵器産業を日本の主翼な産業に成長させようとしている・・・
・・・・・・・グンソー先生!あなたは生徒たちにいろいろ言われながらも、そのようななまなましい体験を語ってくれて、ありがとう!あなたたちが中国や韓国でやってきたこと・・人々を踏みつけてきたこと。それは決して忘れませんから。そして同時に子どもたちは、いつの時代にも、大人の本当の気持ちや真実を知りたいと思っていることを。グンソー、グンソーと言われながら、反面教師かなにかわからないけれど、中学生に自らの赤裸々な戦争体験を一生懸命に語ってくれていた先生!あなたが話してくれたからこそ、今、こうやってブログを通して多くの人々に伝わっていっているんだよ。ありがとう!!
(参考)百人斬り競争についてーウイキぺディア
この競争の模様は、大阪毎日新聞と1937年11月30日付けと12月13日付けの東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって報道された。その報道によると、日本軍が南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)のどちらが早く100人を斬るか競争を行っていると報じた。
1937年11月30日付けの東京日日新聞記事では、無錫−常州間で向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬ったと報じている。また、1937年12月13日付けの記事では、12月10日に記者と会った時のインタビューとして、すでに向井少尉は106人、野田少尉は105人の中国兵を殺害しており100人斬り競争の勝敗が決定できず、改めて150人を目標とする殺害競争を始めると報じている。
日本軍兵士の日記より:
二三日前捕虜セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ似テ射殺ス、其ノ后銃剣二テ思ウ存分ニ突剣ス・・・・」
南京占領から3日後の1937年12月16日、ある日本軍兵士の日記
この記述は、元兵士の日記を掘り起こしていた小野賢ニが会社勤めの合間をぬって、聞き取りを行って集めたという。はじめは「もう日記を捨てた」と言っている人でも、なんども通ううちに見せてくれたという。
1946年7月25日、東京裁判の法廷は重く沈んだ。南京を占領した日本軍の残虐行為を、現地にいた米国人医師が発言したからである。国民は東京裁判で初めて南京事件のことを知った。
(8月21日、朝日新聞夕刊)
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