nd-4) (nuclear deterrence) あと一歩で
核戦争だった実例 – II
2025年5月
Wikipedia英語版にあって日本語版には
見当たらないnuclear close callsという
ページ
Nuclear close calls – Wikipedia
の日本語化、後半です。
1970年代から最後まで。
では、いつもどおり、
私の要約・抜粋・日本語化
< > 内は私からの補足説明
です。
*****************************************
1970年代
1973年10月
ヨム キッパー戦争<下の * 参照>の間、
イスラエル高官たちはアラブ諸国の連合
侵攻軍がイスラエルを蹂躙するのではと、
パニックに陥っていた。 シリア陸軍が
ゴラン高原<下の ** 参照>を制覇する
勢いであったためだ。それに加えイスラエル
はアメリカに緊急空輸を要請していたの
だが、アメリカ政府はそれを拒否したのだ。
ある元CIA高官の話によれば、当時のイス
ラエルの国防大臣モーシェ ダヤンが当時の
イスラエル首相ゴルダ メイアーに、ジェリコ
というミサイル13発とF-4ファントムII
ジェット戦闘機8機とに核弾頭を搭載する
許可を求めており、これを首相は認めた。
このミサイルの発射装置はスドトゥ ミカ
空軍基地にあり、戦闘機の方はテル ノフ
空軍基地において指示を受けてから24時間
以内に離陸できる態勢にあった。ミサイルの
標的は、カイロとダマスカスにあるアラブ軍
の司令部であったとのことである。
その核弾頭ミサイルをイスラエルが配備して
いたところをロッキードSR-71ブラック
バード偵察機が発見、アメリカの知るところ
となった。同日、アメリカは空輸を開始した。
国連の安全保障理事会は停戦を命じたが、
イスラエル国防軍(IDF) はエジプト軍を
包囲するべく動き出し、戦闘が再開した。
アメリカ国章の元高官たちの話では、
<当時の>ソヴィエト連邦指導者レオニド
ブレジネフはイスラエル軍に対しソヴィエト
の飛行中戦力を展開するぞと脅し、アメリカ
軍はDEFCON 3警戒態勢に入った。そして
イスラエルも、核兵器を再度配備した。
DEFCON 3警戒態勢がまだ続く中、ミシガン
州にあるキンケロエ空軍基地でアラーム
システムの修理をしていたメカニクス技師
たちが誤ってそれを作動させ、同基地のB-52
爆撃機がもう少しでスクランブル発進して
しまうところであった。当直の士官が誤った
アラームだと宣言し、スクランブルを回避
した。結局、メイアー首相がすべての軍事
行動を中止させ、この危機は沈静化したの
だった。公開されたイスラエルの機密文書
からは、上記のような事態が直接に確認
できるわけではないが、この戦争で勝利を
得るためにイスラエルが「常軌を逸した手段」
にさえ訴えるつもりであったことは
確認できている。
* ヨム キッパー戦争:
日本語では「第4次中東戦争」とも呼ばれる
戦争で、1973年10月でした。
エジプトとシリアが主導するアラブ諸国
連合軍が、1967年の六日間戦争でイスラ
エルに占拠されたゴラン高原(シリア)と
シナイ半島(エジプト)の奪還を目指して
侵攻した戦争でした。当時の世界はアメリカ
(イスラエルと同盟)VS旧ソヴィエト連邦
(アラブ諸国と同盟)という冷戦構造に
あったため、この両大国も反応・関与、
世界を巻き込む大騒ぎになったのでした。
結局、10月25日に国連の調停で終結を
迎えました。
軍事力ではイスラエルを倒せないと悟った
アラブ諸国は別の手段に打って出、アラブ
産油国主体だったOPECが親イスラエル
諸国への石油輸出制限を実施、世界的に
石油価格が高騰したのです。これが、
第一次オイル ショックでした。日本でも
それまでの高度経済成長が終焉を迎え、
1970年代半ばの不景気が訪れたのでした。
それと、ヨム キッパー戦争をきっかけに
イスラエルとパレスティナの間での和平
プロセスが進んだのですが、これが一筋縄
ではいかず数々の問題を伴って現在に
至っていますよね。
なおヨム キッパーとはイスラエルで多数派を
占めるユダヤ教の三大祭の1つで、現在の
日本などで使われているグレゴリオ暦だと
9月下旬から10月前半に祝われます。初日
には、ユダヤ教徒は一切の労働を行わず、
断食することになっています。そこを
アラブ軍が狙ったのでしょうね。
** ゴラン高原:
1967年6月の「六日間戦争」(第三次中東
戦争とも)ではエジプト、シリア、ヨルダン
が連合してイスラエルと戦闘を繰り広げたの
ですが、イスラエルがわずか6日間で圧勝、
シリアの南西部にあるゴラン高原まで実効
支配するに至りました。
ヨム キッパー戦争ではシリア軍がいったんは
ゴラン高原を制圧する勢いでしたが、イスラ
エルの熾烈な反撃で撃退されます。
そんなこんなで、誰が支配するのか、
今も揉めている高原です。
1979年11月9日
ピーターソン空軍基地にあるNORAD本部
<北アメリカ航空宇宙防衛司令部>、
オフット空軍基地にある戦略空軍コマンド
(Strategic Air Command、1992年まで
存在)、ペンタゴンにある国家軍事指揮
センター(National Military Command
Center)、ならびにレイヴン ロック
マウンテン施設(Raven Rock Mountain
Complex)にある国家軍事指揮代替センター
(Alternate National Military Command Center)
でコンピューターの誤作動が発生、アラーム
が響いた。実際にはありもしなかった
ソヴィエトからの大型攻撃に対し、全面的に
備えよというのだ。NORADから当時の国家
安全保障アドバイザーであったズビグニュー
ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski)に、
ソヴィエト連邦がアメリカに向けて弾道
ミサイル250発を発射したとの知らせが
入った。それから3-7分以内に報復するか
否かの判断を大統領が下さねばならない、
というのだ。さらにNORAD のコンピュー
ターはアメリカに押し寄せつつあるとされた
ミサイルの基数を2,200基に変更した。戦略
空軍コマンドにもこの通知が届き、核兵器
搭載の爆撃機が離陸準備を整えた。こうした
当初の応答があってから6-7分以内に、
PAVE PAWS という人工衛星とレーダーの
システムが、この攻撃の知らせは誤りで
あったと確認した。
このパニックの時点でCharles H. Percy上院
議員がNORADの本部に居合わせたため、
アメリカ議会はこの事態のことを直ちに
知った。アメリカ会計検査院(General
Accounting Office)が調査を実施したところ、
チェイエン マウンテン施設(Cheyenne
Mountain Complex)で業務用コンピューター
に誤って<核攻撃などを受けた場合に備える>
訓練用シナリオをロードしてしまっていた。
アメリカ国務省のアドバイザーだった
Marshall Shulman はこの事態について
コメント、「こうした誤りの警告は、珍しい
ことではない。こうした誤報への対応には
不注意がつきまとっており、私はそれを
気に病んでいる」と語った。当時の
ソヴィエトの書記長レオニド ブレジネフは
当時のアメリカ大統領ジミー カーターあてに
書簡を記しこの事態での誤報は「とてつも
ない危険をはらんでおり」、「こうした問題
では間違いはあってはならないはずだ。それ
には、貴殿も同意していただけるものと思う」
と述べていた。この事態に続く数か月間には
NORADでさらに誤アラームが3回も発生
したが、そのうち2回はコンピューターの
チップの問題によるものであった。そのうち
の1回では、アンドリューズ空軍基地で国家
危機空中指揮機(National Emergency
Airborne Command Post)<地上から指揮を
とれない非常時に、大統領や国防長官などが
この航空機に乗って空から指揮を執ります>
が離陸態勢に入った。
1980年代
1980年3月15日
千島列島近海でソヴィエトの潜水艦が訓練の
一環としてミサイル4発を発射した。
アメリカの早期警戒センサーが、その4発の
うち1発はアメリカに向けられていると判断
した。それに対応してアメリカの高官たちが
会合、脅威の評価に当たった。その結果、
本件は脅威には当たらないとの決定に至り、
問題は解決した。
1980年9月18-19日
アーカンソー州<にあった核ミサイル
格納用の>サイロで爆発があり、サイロの
ドアが吹き飛んで核ミサイルの一部がサイロ
から飛び出てしまった。核弾頭は30m先に
着地したが、安全装置のおかげで爆発も
放射性物質の漏出もなかった。この事故の
ため1名が死亡、21名が負傷し、議会に
よる調査も行われた。
1983年9月26日 (下記のような事態が
発生した公算が大きい)
大韓航空007便<下の * 参照> が
ソヴィエト領空で撃墜されて数週間後、モス
クワ近郊にあった衛星早期警告システムが
アメリカがミニットマンというICBMを1基
発射したと報告した。その直後、このシステム
はミサイル5基が発射されたと言い出した。
航空防衛軍の Stanislav Petrov中佐は、本当の
アメリカからの攻撃であればもっと多数の
ミサイルを発射するはずだと考え、この警告が
現実に対応したものだとは認めず、地上の
レーダーで確認できない限りアラームの
誤作動だと上官たちに納得させた。
* 大韓航空007便:
アラスカのアンカレジからソウルへと飛行
していたこの旅客機は、サハリン西の日本海
上空で誤って進入禁止空域に侵入、ソヴィエト
軍はこれをアメリカのスパイ航空機とみなし
空対空ミサイルで撃墜しました。007便の乗客
と乗員合計269名が死亡した、痛ましい事件
となったのです。
1983年11月7-11日
1983年11月7日から11日にかけて、Able
Archer 83という司令部演習をNATO軍と政治
指導者たちとが実施していた。この演習は
その開始日より3日前(D-3)にソヴィエト軍
が通常兵器でヨーロッパのNATO軍に対し
攻撃を始めた、という想定で行われた。それが
大規模の化学兵器戦争へとエスカレートし
(D-1)、演習の初日(D+1)にはNATO軍は
政治指導者に対し、ソヴィエト軍の進行を食い
止めるため核兵器使用に関するガイダンスを
要請、承認されたという想定になっていた。
そこで核戦争へと移行するための準備活動も、
NATO軍は始めた。
そうしたシミュレーションの一環として、
電波で感知されない航空輸送を170回実施
してアメリカの兵員19,000名をヨーロッパ
に輸送し、指令地点を定期的に移動させて
核攻撃を回避、核兵器使用の新たな手順を
採用し、核兵器用の指揮・管理・コミュニ
ケーション(Command, Control, and
Communications、C3)ネットワークに
よる核関連の指示伝達を行い、DEFCON 5
からDEFCON 1 までの各警戒レベルに
応じてヨーロッパでNATO兵力を移動させ、
マーガレット サッチャーやヘルムート
コール、ロナルド レーガンといった政治
指導者たちもこのシミュレーションに
参加していた。
だがその指導者たちはB-52からの兵員供給を
「核攻撃」と呼んでしまい、さらに英国と
米国の間では暗号化した外交チャネルの使用
が増え、おまけに同年9月には<上述の>
誤った核攻撃アラームがあったため、事態は
悪化した。.
そういった事態に反応したソヴィエトは
核搭載可能な軍用機に給油、装備を整え
滑走路っから離陸できる体制を用意した。
さらにICBMも警戒態勢に入った。
ソヴィエトの指導層は、この「演習」は
隠れ蓑で、実はNATOが核先制攻撃を行う
ための準備をしているのだと判断、NATO
によるそうした先制攻撃準備に関する
情報をソヴィエト系のヨーロッパ住民たち
から必死に収集した。NATOが核先制攻撃
を実行するには政治的な決定を下す必要が
あるため7から10日間を要するとソヴィ
エト側は見ていたのだが、この演習のタイム
ラインはそれと良く合致していた。
11月11日にこの演習は完了し、そこで
ソヴィエト軍は任地から撤退した。ソヴィ
エトがこれだけの反応をしていたことに
NATOはしばらく気が付かず、英国の
諜報員Oleg Gordievskyがこの情報を
知らせて初めて認識していた。
1990年代
1991年
ペルシャ湾岸戦争で<下の * 参照>
バース党支配下のイラク<当時のイラクは、
サダム フセイン率いるバース党が支配して
いました>がサウディ アラビアとイスラエル
に向けてスカッドというミサイルを発射した。
<イスラエルとアラブの対立については、
上述の中東戦争の件などからお分かりと思い
ます。時世の変化とともにエジプトやサウディ
などはイスラエルと共存する可能性も探って
いくのですが、それを気に入らない勢力も
当然いたわけですね> さらにイラクは大量
破壊兵器のうち化学兵器を大量に備蓄して
いた。その事実に加えサダム フセインは
以前に 化学兵器で「イスラエルの半分を
燃やし尽くす」と発言しており、アメリカ
主導の連合軍あるいはイスラエルに対し、
サダム フセインが化学兵器の使用を命じる
恐れがあるとの不安が募った。イスラエルの
イツハーク シャミール首相ならびに空軍
総司令官Avihu Ben-Nunはともに、イラク
からの化学兵器攻撃があれば「大がかりな
報復を行う」と述べていた。つまり、イス
ラエルはこの場合には核兵器による報復を
行いえる、ということであった。それと
同時にアメリカの国防長官Dick Cheney、
Norman Schwarzkopf Jr.将軍、英国のマーガ
レット サッチャー首相は口を揃えて、
連合軍に対し大量破壊兵器を使用するなら、
連合軍はイラクに核兵器を使用すると
語っていた。
アメリカのジェームズ ベーカー国務長官は
イラクの外務大臣であったタリク アジズに
対し、イラクがこの戦争で大量破壊兵器を
使用した場合、アメリカには「報復を行う
手段がある」と述べていた。戦争の終結後、
アメリカの国防情報局(Defense
Intelligence Agency) は上述のような脅し
が功を奏し、イラクによる連合軍への化学
兵器攻撃を抑止できた とした。だが実は
サダム フセインは、自分がイラク軍の
指導層と連絡を取れなくなった場合や
イラク政府が崩壊しそうになった場合
には、テル アヴィヴに対して大量破壊
兵器の弾頭のある兵器を使用するとの
緊急対応策を用意していた。そうなれば
ほぼ確実に、イスラエルは核兵器による
報復を行ったであろう。実際には、
サダムがイラク政府の崩壊を感じ取った
わけではなく、この対応策が実行に
移されることはなかった。
* ペルシャ湾岸戦争:
1990年8月、サダム フセインが治めて
いたイラクが隣国であるクウェートに
侵略、占拠しました。国連安保理が直ち
に反応、イラクの撤退を求めたりしたの
ですがイラク軍は居座り続け、アメリカ
と英国がサウディに軍を集結、他の諸国
にもこの連合軍への参加を呼びかけ
ました。
結局、翌1991年1月にはアメリカ主導の
連合軍がイラク軍への攻撃を開始したの
でした。明らかに不利な情勢に陥ったサダム
フセインは、イスラエルに向けスカッドと
いうミサイルを発射しました。イラク vs
クウェートという構図では不利なので、
アラブ諸国の宿敵であったイスラエルを
戦争に巻き込み、アラブ vs イスラエルと
いう構図に転換させようと目論んだよう
です。スカッドの攻撃を受け、いったんは
イスラエルも核爆弾搭載の爆撃機を発進
させたようですが、引き返した模様です。
結局、サダムの目論みは達成されず、
翌2月には連合軍の勝利が確定、
クウェートは独立を取り戻したのです。
しかし、あと一歩で実際に核兵器が
さく裂してしまうところでした。情勢次第
では核保有国に対して「挑発的な攻撃」が
なされた場合もあった、という実例です
よね。
1991年4月27日
1991年4月27日、カンサス州ウィチタの
南西に大型のトルネードが襲来、<同じ
カンサス州にある>アンドヴァ―という町
に向かっていた。その途上でトルネードは
マッコーネル空軍基地に被害をもたらした
のだが、その際にもう少しでこの基地に配備
されていたロックウェル B-1 ランサーという
戦略爆撃機10機も被害を受けるところで
あった。そのうち2機が、核弾頭を搭載
していた。
1995年1月25日
当時のロシア大統領ボリス イェルツィンは、
ロシアの核発射ブリーフケースを作動させた
史上初の世界的指導者となった。ロシアの
レーダー システムがミサイルと思しきもの
を検知したためだ。実は後に、これは
ノルウェーのBlack Brant XIIという調査用
ロケットであったことが判明、オーロラの
研究のためのものであった。だがロシアの
弾道ミサイル搭載潜水艦が警戒態勢に入り、
報復攻撃の指示が出れば実行できるよう準備
を整えた。このロケットがロシアにとっての
脅威とはなりえないこと、より大規模の攻撃
の一環ではないことが明らかになると、この
警戒態勢は解除された。実はこのロケットに
ついては発射に伴う警告が数か国に通知
されており、ロシアもその1つであった。
だが、その警告がロシアのレーターのオペ
レーターたちには届いていなかったのだ。
2000年代
2007年8月29日、ノース ダコタ州にある
ミノー空軍基地でアメリカ空軍(USAF) の
B-52H重爆撃機に、 核弾頭搭載のAGM-129
ACM 巡航ミサイル6基が誤って搭載された。
さらにこのB-52Hはルイジアナ州のバークス
デール空軍基地へと移動した。 ミサイルの
核弾頭は、ミサイルを保管用バンカーに収める
前に核弾頭を取り外しているはずであった。
実際にはまだ核弾頭を搭載していたミサイル
だが、それらが紛失していたとの報告は
なされず、ミノーでもバークスデールでも
36時間にわたり重爆撃機に乗せられたままで
あった。この間、核弾頭には義務とされて
いた各種の安全処置が施されておらず、
それらの所在もアメリカ政府は把握して
いなかった。アメリカでこうした事態が発生
したのは40年ぶりのことで、後にメディア
は本件を「この数十年間のアメリカで最悪の、
核兵器に関する規則違反の1つ」であると
報じた。
2010年代
2017–2018年
2017から2018年にかけてアメリカと
北朝鮮、特にアメリカのドナルド トランプ
大統領と北朝鮮の金正恩 最高指導者とは
脅迫を応酬しあったのだが、それがもう
核戦争の一歩手前と呼びうる激しさであった。
2017年8月、トランプは「世界市場に前例
のないような炎と激怒」とをお見舞いするぞ
と北朝鮮に警告を発した。2017年の国連
総会での演説で、トランプはアメリカが自国
を防衛せねばならないような事態になった
場合には、「北朝鮮を全面的にぶっ潰す」
しか選択はない、と警告している。これに
対抗して北朝鮮は、トランプのことを
「老いぼれ」と呼び「痛く後悔する」ことに
なろうと返し、アメリカが「開戦を布告
した」と避難した。2018年1月、トランプは
さらに<Xで> 北朝鮮よりも「アメリカの
核兵器発射ミサイルの方が大きい」とツイート
していた。
同じく2018年1月、トランプは韓国への
アメリカ大使に就任するはずだったVictor
Chaの任命を取り消したと報じられている。
これは、北朝鮮に対し原敵的攻撃を行う
ことにChaが反対していたためだとされる。
この任命撤回を受け、北朝鮮問題の専門家
たちの間では、アメリカは本気で北朝鮮と
戦争をするつもりかとの懸念が広まった。
この危機は「スローモーション化した
キューバ ミサイル危機」と呼ばれた。
(国際関係の専門家である)Van Jackson
著の「On the Brink: Trump, Kim, and the
Threat of Nuclear War」(一歩寸前 ―
トランプ、金、核戦争の脅威)という
書物を見ると、2017年から2018年初頭
にかけてアメリカは史上最も核戦争に
近づいていたそうだ。さらにある報道に
よれば、トランプは韓国からのアメリカ
市民の脱出を検討していたそうだ。
もっとも、そんな手を打てば戦争になり
かねない、との警告はあったのだが。
さらに2023年になって発表された報道
によると、2017年の時点でトランプは
北朝鮮に対し核兵器を使用することを
検討していたという。
2024年
2024年10月1日にイランがイスラエルに
対し弾道ミサイル攻撃を実施したが、その
際にイスラエルの核兵器を格納していると
見られるテル ノフ空軍基地も数回の攻撃
を受けた。そのうち1回の攻撃では、
二次爆発を引き起こしている。
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今回は「後半」で、1970年代以降のケース
だけを日本語化しました。二次大戦終了
から1960年代までの実例は、すでにアップ
ロードしている nd-3) をお読みくださいな。
nd-3) –> nd-4) と続けて一通りお読み
下されば、「核抑止体制」が実は「核戦争
一歩手前の危機」の頻発した体制であった
と、ご納得いただけるでしょう。
こうした事実を見れば、「やかんをのせ
たら~~」の主張、つまり
核兵器は廃絶するしかない
をご理解いただけると思っています。
そして、本来は「核兵器製造のための装置」
であったものに「やかんをのっけて、
蒸気で発電する」設備に過ぎない核発電も
廃絶すべきだというのが、「やかんを
のせたら~~」の主張ですね。
では、次回アップロードする固定ページ
では、以前から計画していながら まだ
アップロードできていない「パキスタンの
核兵器の歴史」を扱う予定です。
しばし、お待ちください。