g-1) (ジャパン)日本もやってた~~

日本軍もやっていた、原爆開発

2020年12月

このページは、Atomic Heritage Foundationのウェブサイトの ”Japanese Atomic Bomb Project” という記事
(2016年5月25日付、https://www.atomicheritage.org/history/japanese-atomic-bomb-project )をもとに記しました。

その他、日本語のWikipediaにも「日本の原子爆弾開発」という記事があります。

ここでは、”Japanese Atomic Bomb Project” や後述のビデオ “Samuel Hawley, ATOMIC BOMB: Japan’s secret WW2 A-bomb project” などをベースにしております。

反核団体や反原発団体の皆様へ

今年(2020年)の8月、NHKで「太陽の子」というドラマを放送したそうです。旧日本海軍の原爆開発プロジェクト、「F研究」を題材にしたドラマのようですね。このF研究は第二次大戦の終わりごろに京都帝国大学の理学部を拠点に行われた、原子爆弾開発プロジェクトでした。

私自身はTVというものを持っておりませんし、持っていたとしてもほとんど見ないので、このドラマも見ておりません。ただ、このドラマを見た方々の感想を読んだり聞いたりすると、旧日本軍が二次大戦後期に2つの原爆開発プロジェクト(F研究が海軍のものであったのに対し、陸軍は「二号研究」なるものを展開していました)を進めていた事実そのものを、知らなかった人がいまだに少なくないようでした。

まあ、確かに学校などの歴史書やマスメディアなどを見るかぎり、あまりこの醜悪な事実は取り上げられてこなかったですね。多数派市民が知らなかったとしても、無理もないのかもしれません。でも! だったら、反核・反原発団体などが情報発信すべきでしたよね!?

「何で、あなたが知らせてくれなかったんだよ!?」

「何で、あなたが知らせてくれなかったんだよ!?」

そうでなくても現在の日本国は何十トンかの(兵器グレードではないにせよ)Puを有しており、そのうえ「もんじゅ」があれだけ ”不可能性”を露呈しても、それでもあきらめずに日本政府は「次の高速増殖炉計画」を云々しています。他の諸国から見たら、「ははあ、日本はどうしても原爆開発能力を手に入れたいんだなあ~」と見えますよ。 ← 詳しくは、後日。

なお、すぐに理解したい方々は、たとえばYouTubeのビデオ「原発も核燃もいらん!」(Movie IWJ、2020年10月18日アップロード)をご覧になってください。小出裕章さんの講演で、特に終わりの1:08:00あたりから 1:16:30 あたりまでをご覧になれば、お分かりいただけると思います。 https://www.youtube.com/watch?v=O27V-SZT3MQ にあります。

それに、核兵器・核発電に反対する運動をする場合、どうしてもまずは米ロの核兵器を問題にすることになりますが、他国のことをあれこれ非難するのであれば、その非難をする団体の所在する「自国」のことも、必要なら(該当するなら)同じ基準で叩かないと。そうしないと、フェアではないですよね。
そうしたフェアさに配慮して、日本の過去の核兵器開発プロジェクトなども紹介した反核情報発信を行ってきた反核団体を、日本のその種の団体の中に私はあまり知りません。どうしてなのでしょう??

では、そんなわけで、旧日本軍による2つの原爆開発プロジェクトを短く紹介しますね。

陸軍の二号研究

まず、2つのプロジェクトのいずれもまだ詳細は判明していません。最近発見された文書などにより、徐々に光が当てられつつあります。

歴史家たちが通常、日本の原爆開発プロジェクトの起こりとして引用するのは、1940年10月の鈴木辰三郎による報告書です。陸軍の安田武雄中将の命により、この報告をまとめました。安田はもともとエンジニアで、核分裂の発する膨大なエネルギーに魅せられていました。鈴木の報告書は、原子兵器の製造は可能だとしています。ただ、大きな問題として、ウラニウムの入手が。

とにかく、この報告内容を受けて安田は、「理研」という研究所にいた仁科芳雄博士(1890-1951)に相談を持ち掛けます。仁科は「日本の核物理学の父」とされる物理学者で、コペンハーゲンのニールス ボーア博士などと研究をしたこともある世界的な核物理学者でした。日本初のサイクロトロンを作った人でもあります。1941年4月、陸軍は仁科の研究室が原爆研究を進めることを、正式に承認しています。

「この分離機、役に立たないよう~~」

「この分離機、役に立たないよう~~」

仁科たちはガス分散によるウラニウム濃縮を試みたのですが、これは失敗に終わりました。(詳しくは、後述のビデオ “ATOMIC BOMB: Japan’s secret WW2 A-bomb project” を参照)

しかしそうした技術的問題だけが障害となったのではなく、そもそも陸軍が原爆開発の深刻さを理解しておらず、まったく不十分な予算しか与えられなかったことに、そもそもの原因があるようです。アメリカのマンハッタン プロジェクトの巨大さに比べれば(たとえば、本ウェブサイトのページ b-1 をご覧になるだけでも、いかに大掛かりなプロジェクトだったのか、その片鱗がお分かりいただけるはずです)、日本のそれはいわば「おままごと」の域を出ませんでした。

それでもアメリカはこの二号研究を察知、その現場であった理研(当時、東京は文京区の本駒込にありました)をピンポイントで空爆し、破壊しています。1945年4月のことでした。日本の降伏後、占領軍はこの研究の文書やサイクロトロンを没収しています。さらにサイクロトロンは、東京湾に沈められることに。(こうした処置のため、直接的な資料の多くが失われ、この種の研究についての不明点の多さを生むことになります)

海軍のF号研究

海軍技術研究所でも原爆研究が行われていました。陸軍とは別個の研究となったのは、両軍の間の仲の悪さが原因だったそうです。この海軍研究委員会を統率したのは、伊藤庸二技術官でした。彼の委員会は1942年7月から翌年3月にかけて何度か会合を持っています。アメリカもドイツも原爆開発に取り組んでいたことを知っていましたが、いずれも二次大戦中には完成できないだろうという「楽観的な」見方をしていたようです。日本が原爆を作るには10年ほどを要するだろうと判断し、解散しました。

「当面、だれもできないわ~~」 私の練習作より

「当面、だれもできないわ~~」
私の練習作より

しかし。同じ海軍の荒勝文策(1890-1973)という人が率いたF号研究は、1942年または43年ごろに始動、原爆開発を目指しました。しかし海軍から受けた予算は8万ドルにも満たない程度のものだったそうです ・・・ なんか、笑える金額で、これで原爆を実際に作れるはずもないですよね。技術知識的には優れていたようで、ウラニウム濃縮の手法としては遠心分離機を考えていたそうです。これは、現在広く行われている方法ですね。(本ウェブサイトのページ d-3) 参照)

失敗の原因

要するに、旧大日本帝国の軍部は原爆開発プロジェクトを進めてはいたのですが、

・ 軍部指導層自体がその重要性や開発の大変さを理解しておらず、充分な予算や人材などを与えなかった

・ 日本列島には、ウラニウム鉱山がない(戦後、一時採掘された岡山~鳥取県の人形峠鉱山も、今では閉山されています)

・ そこで当時の日本領土であった朝鮮半島のフンナム(今の北朝鮮にあります)などにウラニウム鉱石を求めたが、鉱石としての質が劣っていた ・・・ このウラニウム鉱石探索は、モンゴルやミャンマーなどにまで及んだそうです。

といった事情から、実際に原爆を作るには程遠かった~~という結果に終わったようですね。(でも、核兵器の「加害者」にならずに済んだのだから、失敗して良かったともいえましょう)

「お前の忘れて行ったピストルだぞ!」「しまった!」

「お前の忘れて行ったピストルだぞ!」「しまった!」

なお、今の北朝鮮の核兵器開発は非難さるべきですが、旧日本軍がそこに核兵器関連施設を持っていたことも、忘れてはいけませんね。世界に核の廃絶を求めていくなら、日本自体が過去に行った核開発についても、事実を発信するとともに反省しているという姿勢を示しませんと。

詳しくは ・・・ おすすめビデオ

英語のビデオを見てわかる方々には、以下のビデオもお勧めです:

YouTube
Samuel Hawley, ATOMIC BOMB: Japan’s secret WW2 A-bomb project
(Nov. 5, 2020)    https://www.youtube.com/watch?v=SJPxEqgN2ek
理研で試作したウラン濃縮のための分離機がどのようなもので、どう失敗したのか ~~ そういった詳細まで、紹介してくれています。
この g-x) (ジャパン) シリーズ、次のページ g-2) では、主に1950-60年代の日本での核エネルギー「平和利用」に関する動きを、ごく手短に「ササっと」見てまいります。
やはり、公開まで日数をいただきますね。悪しからず、ご了承くださいませ。

 

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