核アイデンティティは、
ここまで高くついた
Mother Jones
Why Iran’s Nuclear Program Is So Essential to Its Identity – Mother Jones
Patrick Wintour
2025年6月24日
をベースに
そもそも、イランは何のためにあれ程
U濃縮にこだわるのか??
それが、気になりませんか?
Mother Jonesというウェブサイトで
見つけたこの記事が、その問題を取り
上げてくれています。
もともとThe Guardianに掲載されて
いたものを、Mother Jonesが再掲した
ようです。
一部抜粋・日本語化して紹介しますね。
< > 内は、私からの補足説明です。
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1978年10月パリ郊外のヌフレ ル
シャトーという場所で、当時イランを
実効支配していた英国を背景にしていた
シャー(国王)に対抗していた2名の
リーダーが対談した。イラン革命の
最終段階をどう進めるか、その計画を
練るためだ。<イランはこの頃まで王政
で、実質的に英米の支配下にありました。
それを打倒しイスラム共和国を打ち立て
ようとする革命が始まり、1979年には
現在のイスラム共和国が成立しました。
シャーは、アメリカなどに逃亡>
この革命から今では46年ほどが経過、
その間には歴史に残る出来事も暴力の
惨事もあったが、いよいよこの革命も
消滅に近づいているのかもしれない。
パリ郊外の2名には共通点はほぼ
なかったが、ともにイラン国籍で同年代
であり、シャーを追放するという決意は
共通だった。世俗主義的でリベラルな
National Front <”国民前線”という政治
団体> のリーダーであったKarim Sanjabi
はもと <フランスの> ソルボンヌ <と
いう大学> で教育を受けた法学教授
だった。Ayatollah Ruhollah Khomeiniは、
1960年代から当時まで、<イスラム教の
一派である> シーア派の指導者として
イランの王政に反対してきた。この会談
の時点で、両者は70代だ。
Sanjabi がパリに到着した時、この両者が
率いていた革命の目標を記した宣言草稿を
携えていた。この草稿には、この革命を
推進する原理として、2つのことを記して
あった。民主的であり、イスラム的である
こと。だがSanjabi が後に歴史家たちを
相手に回想したところによれば、このパリ
での会談でホメイニ師は自らの肉筆で、
宣言に第3の原理を書き加えた。
「独立」と。
——
言うまでもなくイランは、ウラニウムを
<60%という> 高純度まで濃縮したこと
には何の秘密もないと、主張している。
この濃縮は、2018年にドナルド トランプ
が一方的にアメリカをJCPOA <2015年
にいったん締結された、イランと西側の
核に関する合意> から脱退させたのだ
が、それに対する明確な抗議行為で
あり、それがエスカレートした行為だと
いうのだ。だがこの抗議行為のため、
交渉でいったんは勝ち取った経済制裁の
緩和を、イランは失う結果になったの
だが。さらにトランプは新たな制裁を
加え、ヨーロッパがイランと貿易を行う
ことができないようにした。イランと
ヨーロッパ間の貿易も、JCPOAで
イランが狙っていた利益だったのだが。
—–
Hassan Rouhani前大統領やJavad Zarif
外相のような中道派の政治家たちは国内
の政治的資産を大量に活用、西側との
この核合意を締結に至らせたのだ。だが
西側は速やかに、その合意を撤回した。
一方で、イランは核不拡散条約を締結
しているのだが、同条約に加盟して
いないイスラエルは核兵器を保有して
おり、しかも <IAEAなどによる>
監査もなければ核保有の宣言もして
いない。そのイスラエルは、<核兵器を
見逃してもらうという> 大きな恩恵と
支援を、西側から受けているのだ。
—–
イラン革命の後では核発電とU濃縮を
行う権利とは、イランの独立と主権の
シンボルとなったのだが、欧州外交
評議会 (European Council on Foreign
Relations)の Ellie Geranmayehの指摘
によれば、イランに元々核発電を導入
したのは英国とアメリカだったのだ。
「atoms for peace」というプログラム
の旗の下でだ。
—–
イランのシャーは、核発電には2種類の
用途 <発電と核兵器> があることを
認識していた。1974年6月にはある
アメリカのジャーナリストに対し、
「君が思っているよりもすぐに、イラン
は核兵器を持つようになるよ、間違い
なくね」とすら語っていた。もちろん
シャーはすぐに、これを撤回したが。
だがシャーの核兵器への渇望を見た
アメリカは徐々に、イランの核発電が
いつか核兵器になってしまうのではと、
憂慮するようになった。
1979年のイラン革命の後で、完成間近
だった原子炉2基の工事が停止に
なった。ホメイニ師は核発電を西側の
大敗のシンボルであるとみなした。
膨れ上がったインフラストラクチャー
のプロジェクトを行うと、西側帝国
主義のテクノロジーに対するイランの
依存度がさらに大きくなってしまう、
というのだ。<イランの> ファルシー語
ではgharbzadegiというのだが、
「西側の害毒にけがされること」という
意味だ。かくして <イランの
核エネルギー> プログラムの大半は終了
となり、一部の核科学者たちは失望した。
だがそれから1-2年のうちに電力不足
と人口増加という圧力を受け、イランの
政策エリートたちは上述の原発プロ
グラム中止を明白に逆行させることと
なった。さらにイラン vs イラク戦争
<イランの革命が他国にも影響すること
を恐れた隣国イラクが1980年にイラン
に侵攻、戦争が始まりました。1988年
まで続き、この化学兵器使用などで
多数の死者が出ました> でイラク軍が
化学兵器を使用、さらに 未完成の
ブシェール原発をイラク軍が繰り返し
攻撃したためイランは国際社会に対し
イラクへの非難を求めたが、イランは
外交面で孤立していた。しかもシャー
が始めた原発プログラムをイランが
革命直後に中止したことで、原発関連の
ヨーロッパ企業各社と何十億ドル規模の
法律面での争議も発生した。こうした
各種要因が重なり、核ナショナリズム
が生じた。
—–
後にラフサンジャニ元大統領が認めた
ところでは、イラン・イラク戦争の際に
イランは核プログラムの再開を始めたの
だが、そこではまず抑止効果を検討して
いたそうだ。この元大統領によれば
「核プログラムの再開を始めた時点で、
イランは戦争状態にあった。敵が核兵器を
使用する恐れもあったので、それに対抗
できる可能性がとりあえず欲しかった。
それが、我々の心配していた問題だった。
もっとも、現実に核が使用されることは、
なかったが」
ラフサンジャニはパキスタンを訪問、
パキスタンの核兵器プログラムの父とも
呼ぶべきAbdul Qadeer Khanと会談する
ためであった。Khanは後に、北朝鮮の
核兵器開発を支援した。
—– (後略)
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・ シャー時代の状況・展開の短い解説
は、上の黒いメニューにあるページ f-2)
にもあります。なお、黒いメニューが
異常に膨張してしまっており、使いにくく
なっていることについては、お詫び申し
上げます。
・ Abdul Qadeer Khan博士という「闇の
核商人」については、以下の各ページ
にも言及があります:
g-7) b-11) g-9) f-3) f-8)
それにしても、やはりイランの場合でも
核発電と核兵器は不可分でしたね。
もともと、イラクとの戦争において
イラクが核兵器を使用するかもしれない
⇒ 抑止力が必要、という論理から核発電
プログラムを再開した、というわけ
ですから。
さらに、もともとイランに核発電をもたら
したのは英米であって、Atoms for Peace
というお題目の下でのことでした。
みなさん、「平和利用」なんてお題目、
もう廃棄しませんか?