nd-3) (nuclear deterrence) あと一歩で
核戦争だった実例 – I
2025年5月
「核抑止」を実現すべきか・否かという
論争をするのなら、その核抑止が成立
していた(と思われる)世界において実は
どのような危機や問題があったのか、
事実を弁えておくべきですよね。そうした
「過去の事実」としては、核抑止体制の
中にありながらも事故や不注意、情勢など
により核戦争になりかけた実例も当然含む
べきでしょう。
そうした危険極まりない事態のことを、
英語ではnuclear close callと呼んでいたり
するのですが ・・・ 日本語では決まった
表現が見当たりません。⇒ 当然、日本語
でのこの種の議論ではclose callsの事実が
充分に検討されてこなかったのでは、
という疑念が生じますよね。
そこで本ページでは
英語版Wikipediaの ”Nuclear close calls”
というページ
Nuclear close calls – Wikipedia
を抜粋・要約・日本語化して
紹介しますね ・・・
・・・ というと、
「なんだ、出来合いのテキストを日本語
にするだけかよ、それも抜粋・要約で」
などと思われやすいのですが ~~
2025年4月23日現在、この記事は英語、
フランス語、ロシア語のみです。日本語版
がないのですね。上記の必要性を考える
なら、ぜひ日本語でも読めるようにすべき
内容だと思います。繰り返しますが、
この種の過去の事実を踏まえたうえで、
「核抑止」の賛否を議論すべきだと考え
ます。
では、いつもどおり、
私の要約・抜粋・日本語化
< > 内は私からの補足説明
・・・ は原文を割愛した個所
です。
抜粋要約といっても、日本語化だけじゃ
なくて短い歴史背景の説明なども適宜
加えますので、一度に全部紹介すると
いたずらに長くなります。
そこで本ページでは、- I として
1969年までを。
70年代以降は、次回のページ
nd-4) で。
それと、先日公開された「日本の
核武装」に関する専門家の対談も
おすすめです:
【秋山信将×小泉悠】「日本がその気になれば、すぐ核武装できる」は本当か? 危機の時代に「日本の核」を本気で考える
************************************
nuclear close call とは、すんでの
ところで少なくても1回の核爆発を招く
危険性があったが、実際にはそれを回避
できた事態のことを言う。そうした事態
が発生した場合、典型的な例としては、
核保有国が核の脅威を感じ、その攻撃者
と見られる国に対する核での報復攻撃を
行う恐れがある。
国家間での核の応酬があった場合、その
被害は参戦国に限定されるとは限らない。
小規模の限定地域的核戦争であっても
<核爆発は> 急速な気候変動を招くとの
仮説があり、世界規模での食糧生産を
危うくしかねない。この危機のシナリオ
は、「核の飢饉』と呼ばれている。
・・・ (中略) ・・・.
1991年に旧ソヴィエト連邦が崩壊、それ
により冷戦が集結して核による世界の
緊張が緩和し主要核兵器の削減がなされた
が、<現在でもなお> 全世界には15,000
個の核弾頭が残っており、そのおよそ90%
はアメリカとロシアが保有している。
nuclear close calls の多数については、その
正確な詳細は入手しがたいのだが、特定の
ケースを分析すればそうした事態を防止
するうえでの各種の要因の重要性が
浮かび上がる。国際的なレベルでは、
情勢への対処と第三者による仲介との
重要性を挙げられる。 国家レベル
では、政府によるコミュニケーション
と主要な意思決定担当者の関与が効果を
発揮しうる。そして個人レベルでは、
個々人が直感に従い慎重に決定を下す
ことが決定的な役割を果たす。それが
既存の規定とは食い違う場合も多い。
溢れる疑惑 ~~
私のかなり昔の作品 “Dead End”
1950年代
1950–1953
朝鮮戦争 <下記の*参照> の際、
アメリカは北朝鮮と中国北東部(満州
地域)への核攻撃を検討していた。
これは、中国の人民志願軍の参戦に対抗
するためであった。 核分裂ピットを抜いた
状態のものではあったがMark 4という
核爆弾をグアムと沖縄に配備した。
ボーイング29「スーパーフォートレス」と
いう大型戦略爆撃機を沖縄の嘉手納基地に
配備、北朝鮮の標的に対するダミー核爆弾
あるいは通常爆弾での爆撃練習まで実施
された。
* 朝鮮戦争: 1950年に北朝鮮が韓国に
侵略を開始して始まった戦争で、西側を
主力とする国連軍も参戦、すると中国の
人民志願軍も対抗して参戦しました。
結局1953年7月に国連軍と中朝連合軍
とが休戦協定に合意、休戦に至りました。
以降、いわゆる(北緯)38度線が韓国と
北朝鮮を仕切る実質的な国境線になりま
したが、今も終戦には至っておらず戦争
状態は続いていることになります。
(本文の続き)
アメリカはさらにロシア極東部にある
ソヴィエト空軍基地への攻撃も検討して
いた。最有力候補は、アルテム空軍基地
であった。
1954
<ベトナムの> ディエン ビエン フ―
の戦い <下の * 参照> の際、
フランスからの要請を受けたアメリカ
はべトミンに対する戦術核兵器の使用を
検討した。<フランスが核爆発実験に
成功したのは1960年のことで、1954
年の時点ではフランスはまだ核兵器を
保有していませんでした> フィリピン
ないしは沖縄に配備されていたアメリカ
の戦略爆撃機、さらには第七艦隊の航空
部隊を使用して戦術核爆弾3個による
攻撃を検討していた。Mark 7という
核爆弾であった可能性が高い。
* ディエン ビエン フ―の戦い:
現在のベトナム、ラオス、カンボディア
は1945年の時点でフランスが植民支配
していましたが、独立を求める勢力が
「べトミン」と呼ばれる武装勢力を組織、
フランスとの戦闘を展開しました。第一次
インドシナ戦争と呼ばれています。
(後のアメリカVSベトナムの戦争や
ラオス内線、カンボディア内戦をまとめて
第2次インドシナ戦争と呼ぶ場合がある
ため) この第一次インドシナ戦争は
1954年まで続きましたが、結局ベトナム
独立勢力が勝利、独立を勝ち取ったの
ですが ~~ 内戦が始まり、後の
ベトナム戦争につながっていきます。
この第一次インドシナ戦争での最大の
戦闘が、ディエン ビエン フ―の戦い
でした。
1956年11月5日
スエズ動乱 <または「第二次中東戦争」、
下の * 参照」> の際、北アメリカ航空
宇宙防衛司令部 (North American
Aerospace Defense Command (NORAD)
が数件の報告を同時に受信した。その
内容として、トルコ領空での未確認飛行
物体の発見、シリア上空でのソヴィエト
MiG-15戦闘機の飛行、英軍のキャンベラ
中型爆撃機の墜落、さらにソヴィエトの
黒海艦隊がダルダネレス海峡を通過して
予想外の動きを示していたのだが、それが
ソヴィエト軍による攻撃の始まりの
ように思われた。それに先立ちソヴィエト
は英仏に対し通常弾頭ミサイルでの攻撃を
辞さないとの脅迫を公表しており、それを
鑑みたアメリカ軍は上述の報告にある
ような事態を受けNATOがソヴィエト
連邦に対し核攻撃を開始しかねないと判断
した。
実際には、こうしたソヴィエト側に関する
報告はすべて誤り、誤解、あるいは誇張で
あることが判明した。脅威が迫っている
ように見受けられたが、実は各事態がたま
たま同時に発生していたのであった。
トルコ上空では白鳥の編隊が飛行して
おり、シリアのシュクリ アル・
クワトゥリ大統領がモスクワを訪問したが
その帰国便を戦闘機がエスコート、また
英国の戦闘機が墜落したのは機械的な問題
のためであった。そして黒海艦隊の演習は
予定通りのものだった。
* スエズ動乱:
1956年6月、エジプトがスエズ運河の
国有化を宣言しました。これを受けて
英仏は、エジプトと以前から対立して
いたイスラエルと密約を締結、エジプト
への共同攻撃を計画したのでした。10月
にはイスラエル軍がエジプトに侵攻、
シナイ半島を占領しましました。当然、
国際世論の激しい抗議を浴び、国連も
即時停戦を決議。イスラエル軍も、翌年
3月に撤退となります。
ひどいヘマを ~~
私の7分クロッキー
1957年5月27日
ニューメキシコ州アルバカーキ―の南側で
B-36 <という戦略爆撃機> が誤って
核爆弾を落下させてしまった。安全措置と
してこの爆弾からはプルトニウムのコアが
取り付けられておらず、機内の別の箇所に
保管されていた。そのため核爆発は防止
された。・・・
* なお、こうした核兵器を巻き込んだ
過ちや事故は、これ以外にも
1958年3月11日、1961年3月14日、
1964年1月13日、1965年12月5日、
1966年1月17日
などなどにも発生したそうです。
1958年8月―12月
アメリカのChristian Herter国務長官は
第二次台湾海峡危機 <下の * 参照>
のことを「史上初の、核戦争に至りかね
ない深刻な危機」と呼んだ。この軍事
衝突で中国は本土東岸の台湾海峡にある
金門諸島(KinmenあるいはQuemoy)
と馬祖諸島(Matsu)に砲撃を加えた。
台湾の主権領土をアメリカが軍事的に
どこまで防衛するのかを探るためだった。
中国は台湾への侵略を検討しており、
そのための先制攻撃でもあったのだが、
結局は失敗に終わった。<1949年まで
中国本土では国民党(台湾)と共産党
の間での内戦が展開されていたが>
同年に中華民国(国民党政府、Republic
of China, ROC)の軍であり政治機関
でもあるKuomintang(KMT、国民党)
が台湾に逃れたのだ。この砲撃の際には
東碇島(Dongding)周辺で海戦も
行われ、中国(人民共和国、PRC)
海軍が水陸両面での上陸を目指していた
のだが、ROC海軍がそれを阻止した。
* 第二次台湾海峡危機:
上述の通り中国本土政府(PRC)と台湾政府
(ROC)とは対立や衝突を繰り返していたの
ですが、既に1954年5月にはPRC軍が
大陳島(現在のPRCの台州市沖にある諸島)
及び一江山という島周辺の島々を占領する
という軍事衝突がありました。(第一次危機)
そして4年後には、上述の第二次危機が
あったのです。
1960年代
1960年10月5日
グリーンランドのトゥール空軍基地<現在
のピトゥフィク宇宙基地> にあった
レーダー危機が誤作動し、ノルウェー上空
の月の出をソヴィエトによる大量の
ミサイル発射と捉えてしまった。その
「攻撃」の報告を受けたNORAD <北アメ
リカ航空宇宙防衛司令部> は厳戒態勢に
入った。だがこの時点で当時のソヴィエト
指導者ニキータ フルシチョフは、ソヴィ
エトの国連使節団団長としてニューヨーク
にいたため、この攻撃報告の信ぴょう性は
疑われることとなった。
1961年1月24日
3~4メガトン級のMark 39核爆弾を2個
搭載したB-52「ストラトフォートレス」
爆撃機がノースカロライナ州ゴールズ
ボロー近郊の上空で空中分解、核爆弾を
落下させてしまった。Walter Scott Tulloch
機長は搭乗員たちに高度2,700mで脱出
するよう指示した。5名は無事に脱出
あるいは危機回避して安全に着地できた。
他の1名は脱出はできたのだが、着地に
失敗した。他の2名は墜落で死亡した。
2013 年になって公開された情報によれば
「この核爆弾が爆発して火災を引き起こし
広域に破壊をもたらすことはなかったが、
… それはたった1つのボタンのおかげで
あった」 サンディア国立研究所で核兵器
安全部門に勤務していたParker F. Jones
が1969年10月22日付の専門家による
分析を作成したのだが、それによれば
「発電技術関係のシンプルな低電圧
ボタン1個のおかげで、アメリカは
大惨事を免れた」 さらにこの空中分解
の際にアーム ラインの回路でショート
が発生していたら、核爆弾が爆発して
しまっていた「恐れがあると見られる」
そうだ。
1961年11月24日
<アメリカ空軍に昔あった> 戦略航空
軍団 (Strategic Air Command) 本部
(SAC HQ) のスタッフたちが、一斉に
NORADならびに複数の弾道ミサイル
早期警戒システムの現場との通信不能
に陥った。こうした通信回線は冗長性
を確保するとともにお互いに独立した
設計となっていたので、この通信不能
は計画的な攻撃によるものか、あるいは
偶然と偶然が重なるという可能性の
極めて小さい事態のいずれかであろうと
された。SAC HQ は出撃準備のできた
人員全員の出撃準備を整えたが、その前
にすでに飛行中であった航空機が攻撃は
なかったようだということを確認した。
後に判明したことだが、この通信問題の
原因は、コロラドにあった中継ステー
ション1か所の障害に他ならなかった。
Messed up —
私の、かなり昔の作品用スクラッチ
1962年10月25日
キューバ ミサイル危機<下の* 参照>
の際にアメリカの軍事立案者たちは、
ソヴィエト連邦が何らかの核先制攻撃を
始める前に破壊工作があり得ると予想
していた。<そんなキューバ ミサイル
危機の只中であった> 1962年10月
25日、<当時アメリカのミネソタ州に
あった> ドゥルース セクター指揮
センター < Duluth Sector Direction
Center、アメリカ空軍の施設でしたが、
1960年代まで使用されていました>で
ある守衛が、何者かがセキュリティ
フェンスをよじ登るのを発見。守衛は
その人物めがけて発砲、そのため破壊
活動に対するアラームが作動した。それに
応じ、近隣地区のほかの基地にある同様の
アラームも自動的に作動した。<ミネソタ
州の東隣にある> ウィズコンシン州の
ヴォルク フィールド基地では、アラーム
システムの故障のため代わりに「クラク
ション」<非常サイレン> が鳴り響いて
しまった。それを受け航空総隊(Air
Defense Command、ADC)は、核兵器を
搭載した F-106A迎撃機の離陸を命じた。
パイロットたちには非常事態訓練では
ないとの連絡がなされており、政治科学者
のScott D. Saganによればパイロット
たちは「核戦争が始まったのだ」と確信
していた。飛行機が離陸準備を整える前に
基地の司令官がドゥルース基地に連絡を
取ったところ、このアラームは誤作動で
あったことが判明。 航空総隊のある士官
が自分の車を滑走路に走らせ、ライトを
点灯して航空機に離陸しないよう合図を
出した。そして件の「侵入者」だが、
クマであったことが分かった。
Sagan の記したところによれば、この
事態ではADCの迎撃機が誤って戦略
航空軍団(Strategic Air Command、SAC)
の爆撃機を撃墜してしまう危険性もあった。
迎撃期の乗員たちには、爆撃機を分散先の
各基地(ヴォルク フィールド基地など)
へと移動させる計画だという連絡がSAC
から充分には なされておらず、クローム
ドーム作戦の一環として継続的な警戒態勢
で爆撃機を移動させるための経路も秘密と
されており、乗員たちには知らされて
いなかった。 後に公開されたADCの文書
を見ると、「この事態により非常警告用
クラクション システムの改良が行われた」
とのことだ。
* キューバ ミサイル危機:
1962年10月から11月にかけて、
キューバ沖でアメリカ軍と当時の
ソヴィエト軍とが核兵器を巡ってにらみ
合い、核戦争の一歩手前状態にあった
事態のこと。
この年の夏、ソヴィエトと既に社会主義国
となっていたキューバとは秘密の軍事協定
を締結、ソヴィエトは秘密裏にキューバに
核ミサイル基地を建設していました。
アメリカ軍が偵察飛行でそれを発見、
アメリカは直ちにキューバを海上封鎖し、
このミサイル基地の撤去を求めました。
まさしく核戦争の一歩手前という状態に
陥りましたが、米ソ首脳が書簡で交渉を
進めてソヴィエトは核ミサイルを撤去、
11月21日にはアメリカも海上封鎖を
解除しました。
これを受け、米ソ首脳間に「ホット
ライン」が設けられたのは有名ですね。
なお、若い世代で「日本も核武装すべき
だ」とおっしゃる方々と話し合っていた
時、私がこのキューバ ミサイル危機に
言及したところ、その若い方々から
「なに、それ??」との反応が。むろん、
私はあきれ返りましたよ。
核抑止を提唱するのなら、その核抑止に
密接に関連した過去の事実は弁えて
おきませんと。事実に基づいた主張や
議論をしたいものです!
1962年10月27日 (下記のような
事態が起きた公算が強い)
キューバ ミサイル危機の最中、ソヴィ
エトのパトロール用潜水艦B-59が
アメリカ海軍から妨害を受けたため、
もう少しで核魚雷を発射してしまう
ところだった。キューバ近海でアメリカの
駆逐艦に包囲されたソヴィエトの軍用船舶
が何隻かあって、その一つであったB-59
は認知されるのを回避するために潜水、
何日間かモスクワとの連絡が取れなく
なった。<アメリカ海軍の> USS Beale
<という駆逐艦> が演習用の爆雷の投下
を開始、B-59に対し浮上するよう合図した
のだが、B-59の艦長と政治担当官
(zampolit) とはそれを本物の爆雷と
誤解してしまった。しかもB-59の
バッテリー残容量が少なくなってライフ
サポート システムの作動がおぼつかなく
なっており、モスクワとの連絡も取れ
ないという状況にあって、B-59の艦長は
すでに <米ソ間の> 戦争が既に
始まっているのではと不安に駆られ、
アメリカ軍の艦隊に対し10キロトンの
核魚雷を発射するよう命じた。同艦の
zampolit もそれに同意したが、このソヴィ
エト艦隊の参謀総長(chief of staff、艦隊の
指揮系統において第2の地位)であった
ヴァシリー アルキポフ(Vasily Arkhipov)
はこの発射許可を認めなかった。同参謀
総長は艦長を落ち着かせ、浮上して
モスクワと連絡を取り新たな指示を求め
させた。
ああ~~なんてヒドイ~~
私の20分クロッキー
同日、アメリカ軍のU-2偵察機が
キューバ上空で撃墜され、しかも別の
U-2をアメリカ空軍のCharles
Maultsby大佐がアラスカ州のアイルソン
空軍基地から操縦していたのだが、
迷走しソヴィエトの領空に480㎞ほど
侵入してしまった。ソヴィエトの領空
からは160km以上離れていろという命令
を受けていたのだが、オーロラのため
経路選択を誤りチュコトゥカ半島
<チュクチ半島とも、ベーリング海峡を
はさんでアラスカの西隣にある半島>
上空に侵入してしまった。ソヴィエトの
MiG迎撃機がスクランブル発射し、
このU-2を追跡した。対抗してアメリカ
のGAR-11 Falcon 空対空核ミサイル
(1発あたり0.25キロトン)の搭載と
発射とが可能なF-102A 迎撃機がスク
ランブル離陸、友軍領空までU-2をエス
コートした。この事件は、以後長年に
わたり秘密とされた。
1962年10月28日
沖縄にある嘉手納空軍基地での事件だが
同基地に勤務していた技術者によれば、
この基地から沖縄にある核ミサイルを
配備した各施設に対して、核ミサイルを
全て発射せよとの誤った指示が出た。
実際に発射された核ミサイルは、皆無で
あった。読谷にあるボロ空軍基地(Bolo
Airfield)にて4基のミサイルを担当して
いたチームの報告によると、この指示を
形成していたコードは秩序だったもので
あったが、担当の地元士官がこの指示を
信用しなかった。ひとつには、その
チームが担当していた4基のミサイルの
うち、ソヴィエトに向けられていた
ものは1基だけで、他の中国に向けられ
ていたミサイルを発射する理由が
見当たらなかった。さらに警戒態勢は
DEFCON 1ではなくDEFCON 2
<下の * 参照> であった。その
ころに同じ基地に勤務していた他の人
たちは、そもそもこんな事態が本当に
あったのか、疑わしいとしている。
* DEFCON:
Defense Readiness Conditionの略で、
国防総省が定めた戦争準備態勢を5つ
のレベルで規定したものです。
5は完全な平時、1が完全な戦争準備
態勢となります。1は今までのところ
発令されたことはないそうで、2は
上記の際に発令されていました。
やはり、キューバ ミサイル危機の
最中であったことに、ご注意ください。
1965年11月9日
アメリカ北東部で大規模な停電が発生、
緊急計画局(Office of Emergency
Planning)の指令センターが全面的な
警戒態勢に入った。通常の停電と核爆発
による停電とを区別するための核爆弾
検出装置があったのだが、そのうち
アメリカ主要都市の近郊にあった数個が
回路の問題で誤作動を起こした。
そのため、核攻撃があったとの誤認が
生じた。
1966年 (下記のような事態が起きた
公算が強い)
フランスの戦略空軍 <Forces Aérienne
Stratégiques、フランスの航空・宇宙軍の
一部で、核攻撃を指揮します。1964年
1月の設立>の歴史がまだ若かったころ、
その送電が雷雨のために中断してしまう
事態があった。そのため、戦時の離陸
命令が表示された。フランス空軍は、
AN-11原爆を搭載したMirage IV爆撃機
を離陸させた。無線でその乗員たち
には基地に帰還せよとの指示が出たの
だが、乗員たちは手順通りに応答し
なかった。そのMirageが給油地帯に
接近した際、給油機を発見できず、
Mirageのミッションは放棄された。
そして基地に戻り着陸した。
1967年5月23日
強力な太陽フレアが発生、それに大量の
コロナ放出が伴い、北半球全体で
<上述の>NORADのレーター複数台に
干渉した。そうしたレーダーの中には
弾道ミサイル早期警戒システム
(Ballistic Missile Early Warning
Systems、BMEWS)3基も含まれて
いた。
この3基は改良工事を終えたばかりで、
このフレアが始まる8日前に稼働を
再開したところであった。当初、この
干渉はソヴィエトが意図的に混信を引き
起こしていたためで、戦争行為による
ものだと認識されていた。アメリカは
核爆弾搭載の爆撃機による反撃を、
もう少しで始めるところであった。
戦略航空軍団が戦闘機の発進準備をして
いたのだが、NORADが太陽フレアの
件を通知した。
・・・.
酔ってたとは~~
かなり昔、私があるウェブサイト用に描いたイラスト
1969年4月16日
アメリカのロッキード EC-121
ワーニング スターという早期警戒機が
北朝鮮のMiG-21に撃墜され、乗員31名
全員が死亡した。<韓国の> 群山空軍
基地 <クンサン> では、F-4 Phantom
戦闘爆撃機にB61核爆弾の搭載を命じる
命令が出、北朝鮮への核攻撃の準備が
始まった。この攻撃では、北朝鮮がEC-
121を攻撃した空域も対象に含んでいた。
2-3時間後、待機せよとの命令が出て
ジェット機が飛び立つことはなかった。
当時のリチャード ニクソン大統領は
この北朝鮮への核攻撃を命じた時点で
酒に泥酔していた、との報道もある。
待機せよとの命令を発したのは、
当時のヘンリー キッシンジャー国務
長官の忠告によるものであった。
**************************************
では1970年代以降のclose callsについて
は、次回のnd-4) で!
それにしても、一見すると「核抑止」の
おかげで大きな軍事衝突を回避できていた
ように見受けられる冷戦時代に、実は
どれだけ「破滅の一歩前」があったのか、
恐ろしい限りですよね。
では次回アップロード予定のnd-4) では、
その恐ろしい限りの実例をさらに
紹介します。お楽しみに ~~??
助けて!
私の20分クロッキー3枚を重ね合わせ、切り開いたもの