2023年12月
ページ シリーズ b-x) への新ページの
アップロードは、久しぶりですね。
アメリカ、旧ソヴィエト、英国、
フランス、中国については既に
「核発電と核兵器の不可分性」の
歴史を短く説明してあります。
イスラエルや北朝鮮については、
ページ シリーズ c-x) (上の黒い
メニューにあります)で扱っており
ます。核兵器開発中か?とささやかれ
ているイランについては、シリーズ
d-x) ならびにHOMEの関連各記事を
ご覧ください。
しかし、まだ
インド、パキスタン、南アフリカ
についてはページを作っておりません。
そこで、まずはインドから。
Indian Nuclear Program – Nuclear Museum
に、Indian Nuclear Program(インドの
核開発プログラム)という2018年8月
23日付のテキストがあり、Atomic
Heritage Foundationという財団が
インドの核開発の歴史をまとめて
くださっています。
このアメリカの非営利財団は2002年の
設立、アメリカエネルギー省などと
協力してマンハッタン プロジェクトや
各時代の歴史を保存し解釈を施すこと
を目的としているそうです。
英語本文はA4で8ページほどあり、
短いものではありませんが、あくまで
原文をお読みになりたい方々は、
上のリンクから元のテキストを
お読みくださいな。
「それは、ちと~~」という方々のため
私が抜粋して(長いですので、抜粋に
なります)日本語化し、以下に紹介
しますね。
いつもどおり、< > 内は私からの
補足説明です。
***************************************
<冒頭>
インドの最初の原爆実験は1974年の
ことであったが、それなりの核兵器群を
備えるようになったのは20年以上後の
ことだ。
Early Development (開発初期)
<中略>
インドの核関連プログラムは初期段階
では、核兵器ではなく核発電の開発を
考えたものであった。ネールー
<1889 – 1964、1947年にインドが英国
から独立したのち、初代首相を務め
ました> は核爆弾を「邪悪の象徴」
と呼び、インドの核開発プログラムは
平和な用途だけを求めるべきだと譲ら
なかった。(66) だがネールーは核兵器
開発に至るドアも開けておいた。
それは、彼自身の次の発言に明らかだ:
「無論、インドが国家として軍事用とに
核を使わざるを得ない状況に直面した
場合には、インド国民のだれの・どの
ような信心深さがあっても、インドは
軍事用とに核を使わざるを得なくなろう」
さらにインドは、アメリカの「バルーク
プラン」という核エネルギーを国際的
管理下に置こうとする計画には反対
した。<1946年にアメリカ政府が国連の
原子エネルギー委員会に対し提唱した
提案で、Bernard Baruchというアメリカ
の政治家が作成しました。これが採択
されてしまうなら核エネルギーにおける
当時のアメリカの独占状態が続いて
しまうと、旧ソヴィエト連邦は反対し
ました。結果、冷戦時代の核兵器競争
へとつながっていきます>
反対した理由とは、「核エネルギー生産
での各国の研究開発を禁止しようという
計画であるから」というものであった。
(67)
本格的な核開発が始まったのは1954年
のことで、この年にトロンベイ
<Trombay、インド西部のムンバイ近郊
の町> でバーバ原子力研究センター
(Bhabha Atomic Research Centre、
BARC)の建設が始まった。 BARCは
実質的に <アメリカの> ロス
アラモス国立研究所に該当する存在で、
インドの核開発プログラムの主要研究
施設として機能した。同じくこの頃、
核研究への政府予算が大幅に増大する
とともに、国際的な化学研究のコラボ
レーションへの取り組みも強まった。
1955年、カナダがある原子炉をインドに
提供することに同意した。この原子炉は
チョーク リバー <Chalk River、カナダ
のオンタリオ州にある小さな村ですが、
Atomic Energy of Canadaという核企業
の研究所がありました> で開発された
カナダ研究実験原子炉 <National
Research Experimental Reactor、NRX>
をベースにしたものであった。
<CANDUという重水を減速材に使う
タイプの原子炉でした。重水を減速材に
使うと、生成されるPu量が軽水炉より
多くなり、長崎型原爆の製造に好都合
なのです。後にパキスタンも、CANDU
を導入しています>
アメリカも
「Atoms for Peace」(平和のための
原子力)の旗の下、その原子炉に使う
重水をインドに提供することに同意
した。<重水は希少であり、高価なもの
です。ついでに、日本の大間原発も
当初は Advanced Thermal Reactor
(ATR) という重水原子炉を計画していた
のですが、1995年ごろにコストがかかり
すぎるとの反対が強まり、ABWRつまり
改良型沸騰水原子炉に変更されました>
Canada India Reactor Utility Services
<カナダ・インド原子炉電力
サービス社> は、CIRUSという略称で
知られているが、1960年7月に臨界に
達した。この原子炉は平和利用とされて
いたが、実はCIRUSは、インドの初めて
の核爆弾実験で使用した兵器グレード
プルトニウムの大半を製造したので
あった。<プルトニウムにも各種同位体
があり、Pu-239の濃度によって核兵器
に使えるものと、使いにくいものが
あります。このあたりの説明は、
上の黒いメニューにあるページ if-3) を
クリック。>
*******************************************
文字色を変えての強調は、私です。
ご注意いただきたいのですが、当初は
あくまで「平和利用」にこだわっての
核開発だったわけですね。それが今では、
誰もが知るとおりインドは核兵器保有国
です。
フランスでも、当初はエネルギー目的で
したよね。上の黒いメニューにある
ページ b-4) の中ほど、「第二次大戦
勃発: 1939-1940」という段落をご覧
くださいな。
日本も当然、世界の一部の皆さんからは
潜在的核保有国と見なされています。
「そんなバカな!」と思ってらっしゃる
方は、ページ g-3) , g-4) をお読み
くださいな。
なお2023年12月現在、日本の岸田
政権はあまりにも不人気で、石破茂さん
はひょっとすると次の総理大臣におなり
になるのかも。ページ g-3) の
インタビューにあるように、正直にお話
をされた点は、私は自民党支持者では
ありませんが(支持政党なしです)、
評価しております。さすがは、日本
基督教団の会員さんですね。
しかし。国防を理由に核発電を正当化
する見解には、私は賛同できません。
では、本文を先に進みましょう。
***********************************
Peaceful Nuclear Explosions
(平和目的の核爆発)
後にはパキスタンとの緊張関係がインド
の核兵器開発プログラムを推し進める
原因となったのだが、インドが原爆を
作るきっかけとなったのは中国との衝突
であった。1962年10月、ヒマラヤ地区
の国境に関する対立から両国は戦争状態
になった。インドは旧ソヴィエト連邦と
アメリカの両方に支援を求めたが、
両超大国はそのときキューバ ミサイル
危機の進行中で、インドに構っては
いられなかった。<キューバに
ソヴィエトの核ミサイルが配備されて
いたことが発覚、米ソがキューバ周辺で
にらみ合う結果に。核戦争の一歩手前
まで事態は悪化しました。後日、
キューバ ミサイル危機を取り上げた
固定ページを作成する予定です>
1か月間続いた中国VSインド戦争は
中国の勝利に終わり、インドは屈辱を
味わった。
1964年10月には、中国が最初の原爆
実験を実施した。インド高官たちの一部
は、これを知り核抑止の必要性を強く
認めた。
<中略>
Bhabha <Homi Bhabha、1909 – 1966、
インドの核物理学者で、「インドの
核開発プログラムの父」と呼ばれて
います> によれば、インドはこの時点
でも核兵器の開発は進めておらず、
「平和利用の核爆発」(peaceful
nuclear explosions、PNEs)を推進して
いたそうだ。一方、Shastri <Lal
Bahadur Shastri, 1904 – 1966。インドの
第2代首相> は次のように断言
していた:「将来何が起きるか私には
分からないが、現時点でのインドの方針
として、原爆を作りことはしない。
それが正しい政策だ」(Perkovich 56).
<中略>
********************************************
やはり、私が文字色を変えて強調した
個所にご注意くださいな。
当初は「平和目的のみ!」と明言して
いた国家が、結局は核兵器を製造・保有
する結果に陥った実例の1つが、ここに
あるわけですね。
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Smiling Buddha(微笑む仏陀)
結局、インドは原爆実験をすることを
決めたのだったが、その大きな要因と
なったのは西側からの干渉から自由に
なりたいというインドの願いであった。
その一例として1968年にはインドは
核不拡散条約 (Nuclear Non-
Proliferation Treaty、NPT) への署名
を拒否、世界的な騒ぎを引き起こした。
このNPT ではアメリカ、ソヴィエト、
英国をすでに核を持つ核兵器保有国
として認め、核をまだ保有していない
加盟諸国が核兵器開発プログラムを
実施することを禁じた。インドは既存
の核兵器保有諸国は「核の共謀」で
あると非難し、特にNPTが軍事用
核爆発と平和利用の核爆発とを区別して
いないという事実を問題にした。
(Bhatia 78).
<中略>
1971年12月、インドとパキスタンの間
で戦争が始まった。当時、東西に領土が
分離していたパキスタンの東部が独立を
志し (現在のバングラデシュ)、中国と
アメリカはパキスタンに加担した。
さらに <当時のアメリカ大統領だった>
リチャード ニクソンはアメリカ海軍の
第7艦隊にベンガル湾に入るよう
命じた。<というのが、このインドVS
パキスタン戦争のきっかけでした>
<中略>
1972年9月、<当時のインドの>
ガンディー首相はバーバ原子力研究
センター のツアーを行った後で正式に
核爆発実験を許可した。「インドが
原爆を作ってはいけないのかという
問題について、インドでは議論が
行われたことがなかった」と、
Raja Ramana <1925 – 2004、インド
の核物理学者。インドの核開発
プログラムの主要人物の一人> は断言
している。「どのように実験を行うか、
という問題のほうが重要であったのだ。
インドにとって <核保有は> 国家の
威厳の問題であり、古代インドの
輝かしい歴史にふさわしいものなのだ。
核抑止という問題は、それよりもずっと
後で生じたものだ。インドの科学者
として、我々は西側諸国の科学者たちに
我々も核を開発できるという事実を示さ
ねばならない。我々はこれまで、
彼らから軽く見られてきたからだ」
RamannaはBARCのチームを指揮、
それはおよそ75名の科学者たちで構成
され、プルトニウムのインプロージョン
<密閉容器の中で均等な爆発を起こし、
その圧力でPu-239を核分裂させる
こと> 装置を設計・製造した。実験
準備の様子は、可能な限り日水戸に
された。インド陸軍は、ニューデリー
からおよそ480㎞南西にあるポカラン
実験場 <ポカランはインド西北部に
ある町> に地下約100mに達する実験
用縦穴を掘る任務を受けた。1974年
5月18日、約1,360kgの装置が爆発、
その威力はTNT換算でおよそ8キロ
トンに達した。報道によると Ramanna
はガンディーに、暗号でこの実験の
成功を伝えたそうだ。「仏さまが
微笑んでいる」という暗号メッセージ
であった。
実験の正式名称はPokhran Iだったが、
この1974年の核実験は非公式には
Smiling Buddha <微笑む仏陀> と
いう名前で知られ、よくこの名で
呼ばれている。
Smiling Buddhaは平和目的の核爆発と
いうことにされていたが、Ramannaが
後に認めたところでは、「ポカランの
実験は原爆だった」、そして「あまり
平和目的とは言えぬものであった」
(Reed and Stillman 237) これを受け
すぐに、カナダはインドの核開発
プログラムへの支援を廃した。同様に
アメリカも、この核実験を Atoms for
Peaceプログラムへの違反と見なし、
インドに制裁を科した。当時の
ヘンリー キッシンジャー <Henry
Kissinger> 国務長官は、次のように
断言している:「インドの核爆発は
・・・ 核兵器にあふれた時代という
悪夢を新たに見せつけるものだ。どこの
地域紛争であれ、核のホロコーストに
発展してしまうリスクを伴ってしまう」
(Bhatia 73)
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Henry Kissingerはリチャード ニクソン
政権時代(1969 – 1974)からその次の
フォード政権時代にアメリカの
国務長官や国家安全保障アドバイザー
(補佐官)などを務めた人物です。
その彼も、核の拡散を大いに心配して
いたことが窺える発言ですよね。
1991年の冷戦終結をもって核の脅威に
対する世界的な認識が和らいでいくの
ですが、現実的には核の脅威は薄らいで
などいなかったことは、最近(2023年
現在)の世界情勢からも明らかですよね。
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Weaponization(兵器化)
1974に初めての核実験を実施したのち
インドが軍事的に配備できるだけの
核兵器群と輸送システムとを構築する
までには、20年以上を要した。Smiling
Buddhaの後何年か、世界の核物質市場
が突如としてインドに反発したため、
そうした物質の調達にインドは悩ま
された。だがそうした困難にも
関わらず、バーバ原子力研究センター
<以下、BARCとしますね> の指導層
は現在までのところインド最大の原発
を建設するにこぎつけた。<ムンバイ
近郊の>トロンベイ <という地区、
Trombay > に1977年に建てられた
ドゥルーヴァ原子炉だ。<Dhruva、
一応は研究用原子炉です。でも減速材が
重水でしたので、実は ・・・> この
ドゥルーヴァ原子炉は、インドの核兵器
プログラムに使われたプルトニウムの
大半を製造することとなった。だが、
発電に関してはフルパワーでの発電を
行うようになったのは、1988年のこと
であった。さらにインド政府は1983年
弾道ミサイルのプログラムを承認した。
その後の10年間に、国防研究開発
ラボラトリー (Defense Research and
Development Laboratory、DRDL) が
短射程のPrithvi ミサイルならびに
長射程のAgniミサイルを開発した。
どちらもいずれ、核弾頭を搭載する
ことになった。
<中略>
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現在のインドの核兵器
(現在のインドの核兵器)
<中略>
1998年にインドは <またもや> 核実験
を実施、それを受けアメリカはインドに
経済性を実施した。だがインドと
アメリカの関係は、それ以降友好化
していく。2005年には両国は米印
原子力協定 <India–United States
Civil Nuclear Agreement> に合意した。
この協定のもと、インドは原子力供給国
グループ <Nuclear Suppliers Group、
上述の Smiling Buddha を受けて創設
され、2023年7月現在で48か国が加盟
しています。Pu、U、トリウム、原子炉、
重水などを含む核物質や機器類などの
輸出を規制するガイドラインを定めて
います。ただし、「基礎科学研究」は
対象外とされることがあり ・・・>
経由で核物質を入手することが認め
られた。それと引き換えにインドの
民生用核施設の安全防御策を実施する
こととなり、それにはIAEAによる
査察も含まれる。
<中略>
現在では、インドの首相が議長を務める
核指揮局 < Nuclear Command
Authority> という非軍部の機関が、
核攻撃を承認する権限を有する唯一の
機関となっている。一部の推定では、
インドの保有している核兵器は核弾頭
数で135個と見られている。
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当初は国家指導者が核兵器を悪魔と位置
づけ、平和利用にこだわっていたのに、
いったん核発電開発が始まると、結局は
核兵器保有国になってしまった ・・・
そんな歴史上の事実・経緯を、ご理解
いただけましたでしょうか?
たびたび引用してきた発言ですが、
ここで再度アメリカのアル ゴア元
副大統領の次の発言を、思い起こして
くださいな:
“For eight years in the White House,
every weapons-proliferation problem
we dealt with was connected to a civilian
reactor program. And if we ever got to
the point where we wanted to use nuclear
reactors to back out a lot of coal … then
we’d have to put them in so many places
we’d run that proliferation risk right off
the reasonability scale.”
日本語化したものは、上の黒いメニュー
内の下の方にある 付録 w-4) に!
では、次回の固定ページではインドと
核兵器保有国同士でにらみ合って
いるパキスタンを取り上げる予定
です。ただ、世界情勢の変化などに
より急遽話題を変更する可能性も
あります。ご了承願います。
パキスタンの「カーン博士の闇の
核ネットワーク」については、
すでに上の黒いメニューにある
ページ f-3) と f-8) で、また日本
企業がその闇のネットワークと
「やらかした」事件については
g-7) で、それぞれ取り上げました。
でもパキスタンのっ核を扱う以上
再度カーン博士にご登場いただく
かも。