b-2) では、旧ソビエト連邦の初期原子炉は?

冷戦の「相手」のほうでは~~?

アメリカのHanford Site 以外での
「初期」原子炉(1943年から、
1950年代末あたりまで)をいろいろ

"What's the difference!?!?"

“What’s the difference!?!?”

探っていくこともできますが、
Hanford だけでも充分に背筋が
凍りついたことと思います。

ここでは「初期の」原子炉とは
何のためのものだったのかを
探っているわけですから、
「冷戦」の相手であった
旧ソビエト連邦に移りましょう。

インターネットでサーチして
お調べになる場合、
production reactor というフレーズを
入れることを
お勧めします。
そうしないと、どうも「世界初の
商用原発だったオブニンスク原発」
(1954年に運転開始)の話が
サーチ結果に表れやすいのですね。

オブニンスクは「平和利用の皮きり」として当時は
大いに称賛され、世界各国の指導者たちが視察に
訪れたそうです。
もっとも、オブニンスクの原子炉は後のRBMKという
黒鉛減速原子炉の前身でして、チェルノブイリの大
惨事にもつながっていくのですが~~

やはり原爆が~~

それと、旧ソビエト連邦はすでに1949年8月に、同国としては
始めての原爆実験をセミパラチンスクで実施していました。
(これは、「セミパラチンスク」でサーチすれば、すぐに出てきます)

その原爆はRDS-1 という名前で、長崎で人々を焼き殺した
Fat Man に類似したものでした。つまり、何らかの形で
旧ソビエト連邦も、1949年までには兵器グレードの Pu を
製造していたことになりますよね。
(そこには、実はKGB のスパイ活動も関与していたのですが、
それはまた後日)

https://en.wikipedia.org/wiki/RDS-1  をご覧になれば
Plutonium for the bomb was produced at the industrial
complex Chelyabinsk -40
とありますから、その Pu はチェリヤビンスク – 40 という施設で
製造していたようです。
当然、そこには何らかの「プルトニウム製造用原子炉」(production
reactor)があったはずです。

そんなわけで、production reactor にフォーカスを絞って
サーチしてみると、
http://scienceandglobalsecurity.org/archive/sgs19diakov.pdf
に The History of Plutonium Production in Russia という論文が
見つかると思います。

では、その論文

ではその、http://scienceandglobalsecurity.org/archive/sgs19diakov.pdf
にある The History of Plutonium Production in Russia (ロシアでの
プルトニウム製造の歴史)という論文を手短に見てまいります。

冒頭の記載によれば2011年の発表で、ロシアの Center for Arms Control, Moscow Institute of Physics and Technology, Moscow Region
(直訳すると、「モスクワ物理学・技術研究所、モスクワ地区、軍縮センター」)
のアナトリ ディアコフという方の著作です。

本文の最初の段落に
“For almost 50 years, the production and processing of weapon
fissile materials was the primary mission of the Soviet nuclear complex.
The cloak of secrecy on all nuclear weapons activities was lifted in 1995. However, the Soviet Union did not declare the amount fissile-material
that it produced for military purposes, and —”
とありますよね。
つまり、
・ 旧ソビエトの核関連体制の主な仕事は核兵器用の核分裂性物質の
製造であった
・ 機密事項として覆われていたが、1995年に公開が許可された
・ だが、軍事用に製造した核分裂性物質の量については、旧ソビエトは
発表していない
ということです。

ですから、この論文で取り上げているプルトニウム製造量などは、
推定によるものです。

そうした導入の後で、Design and Operation of the Production Reactors
(プルトニウム製造用原子炉の設計と稼働)という部分が続き、それによれば
ソビエト連邦には黒鉛減速・水冷却式のプルトニウム製造用原子炉が14基
あって、
・ 6基がウラル地区の「マヤク」という施設に
・ 5基がシベリアのセヴェルスク(以前は「トムスク – 7」と呼ばれた)
・ 3基がゼレズノゴルスクの鉱業・化学コンビナートに、
それぞれあったそうです。

合計14基のうち、
・ 12はPu 製造用
・ 2はトリチウムその他の同位体の製造用
だったとのこと。

勘の良い読者の皆様なら、「ははあ、1954年のオブニンスク稼働開始の
前に、かなりの Pu 製造用原子炉があって、それで1949年の原爆実験を
したのだな」と、お察しのことでしょう。

マヤク核施設

http://scienceandglobalsecurity.org/archive/sgs19diakov.pdf
にある The History of Plutonium Production in Russia
(ロシアでのプルトニウム製造の歴史)という論文から、
PLUTONIUM PRODUCTION(プルトニウム製造)という個所の
手短な紹介をします。

Mayak Production Association (Chelyabinsk-65) という個所を
ご覧いただくと、マヤクの核施設にはプルトニウム製造用原子炉
(production reactors) が5基あったと、冒頭に明記されています。
このマヤク核施設ですが、ウラル東部地域にあったもので、
1945年から48年にかけて大急ぎで建設されたもののようです。
しかし、長らく「秘密都市」とされていたので、詳細は私には分かりません。(https://en.wikipedia.org/wiki/Kyshtym_disaster 参照。
日本語版Wikiでは、「マヤーク核技術施設」)

原子炉A

そのマヤクでの最初の原子炉「原子炉A」については、この論文の
Reactor A の箇所に説明があります。1948年6月に稼働開始、
1987年6月まで稼働を続けたそうです。(Table 1)
論文のP33上部にあるように、当初1日あたり0.1kg のPu を製造でき、
ウラン燃料1トンに中性子線を浴びせて平均 o.1kg のPu を作ったようです。
最初に金属 Pu を製造・分離したのは、1949年4月16日のことだったと
あります。
旧ソビエト連邦による最初の原爆実験RDS-1 が実施されたのが
1949年8月29日のことで、セミパラチンスク(現在のカザフスタンに
あります)でのことでしたから、スターリンがいかに原爆開発を焦って
いたか分かりますよね。
(イラストの下に続きます)

本来、単なるデッサンで本文とは関係ないのですが ・・・ なんとなく「被害者の顔」にも見えるので・・・

本来、単なるデッサンで本文とは関係ないのですが ・・・ なんとなく「被害者の顔」にも見えるので・・・

 

マヤクでの、その他の Pu 製造原子炉

AV原子炉と呼ばれたものは3基あって、1950年から52年にかけて
稼働を開始しました。それぞれ稼働初年には、1日につき260g ほどの
Pu を製造したようです。
またAV-3 原子炉はPu だけではなくトリチウム(水爆に使われる物質)も
製造しました。

またAI-IR原子炉も1952年に稼働を開始しましたが、これはもともと
トリチウム製造用に設計したもので、Pu も作りましたが原爆に使えない同位体
(Pu 240)の含有量が多かったため、兵器にはその Pu を使わなかった、とのことです。

この論文にはマヤク核施設にあったその他の原子炉も紹介されていますが、
4基あった重水型原子炉(後日、説明します)のうち最初のものは
本来 Pu 製造用に設計されたものでしたが、1953年にウラン233や
コバルト60、トリチウムの製造に転用されたそうです。(発電用では、
なかったのです) 残る3基も、兵器用トリチウムなどが用途でした。

ずっと後に1979年6月、軽水炉も稼働を開始しました。「軽水炉」というと
我々は「発電」を連想しやすいのですが、トリチウム製造が用途だった
そうです。やれやれ~~

その他の核施設

トムスクー7や鉱業・化学コンビナートにもPu 製造用原子炉が
あったのですが、もう充分に怖い話が続いたので、さらに
お知りになりたい方(もし、いらっしゃるなら)はこの論文
そのものをご覧ください。

要するに ・・・

東西冷戦のいずれ側においても、最初期の原子炉とは発電設備などではなく、
原爆に使う Pu の製造設備だったことが、ご納得いただけましたでしょうか?

なお、マヤク核施設は1957年に大事故を起こしました。
(イラストの下に続きます)

10 minutes of drawing in prayer

昔描いた、10分クロッキー(速写画) ・・・ WMDがこの世からなくなりますことを!

では、そのマヤクでの大事故について
James Mahaffey という核発電推進派の科学者による、”Atomic Accidents” (Pegasus Books, 2014) という書物があります。その283-284ページに
よれば、マヤクの核施設で
・ 1956年、あるタンクにつながる冷却水パイプが破裂したが、
地面を掘って故障個所を見つけ修理をするのは大変なので、
そのパイプへの給水を止めてほったらかした。
そのタンクの中には放射性物質も多量に含まれ、それを冷却する水が
絶たれたことになる。
・ タンクの中で、放射性物質が崩壊熱により高温に達した。タンク内には、
硝酸アンモニウムとアセテートも混在していた。
(日本語版Wikipediaの「アンホ爆薬」というページも参照)
(一種の爆弾タンクが出来ていて、それが放射性物質の崩壊熱で高温に
達したわけですね)
・ 1957年9月29日、それがついに爆発。黒鉛と破片が、大空高く
1kmほどまで飛んで行った。

結局、70から80トンほどの放射性物質が放出されたそうです。
近隣住民全員に退去命令が出され、爆発から2年以内に
約10,000人が移住したようです。汚染地域は今では
「ウラル東部自然保護区」に指定されていますが、この悲劇の
隠蔽のためであることは見え見えですよね。
同書の265 – 266ページによれば、この事故については長らく
隠蔽されており、ソビエト連邦の崩壊後の情報公開で、
ようやく明らかになったものです。実際、1960年5月には有名な
U-2 というスパイ飛行機がマヤクの上空を飛んで調査をしていたの
ですが、撃ち落とされたそうです。

隠蔽・・ 軍事機密

そもそもこのマヤク核施設の存在そのものが長らく極秘とされており、
そのためこの爆発もKyshtum disaster といった名称で呼ばれる
ようになりました。Mayak という名称が、長らく知られていなかった
わけですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kyshtym_disaster  によれば、
マヤクは当時の地図にも掲載されていませんでした。そこで
働く人たちにも、「何の施設なのか」などは極秘とされていました。
(上記の書物の265ページ)

東西を問わず、軍事活動には秘密が伴うものです。
原子炉とはもともと、その軍事用の設備であり、特に初期には
「最先端兵器技術」のためのものでしたから、国家機密として
覆われてしまうことが普通でした。
(アメリカの Hanford Site も、そうでしたよね)

Hanford の場合、敷地の周辺に住んでいた人々およそ2,000人が、
核施設建設に先立ち立ち退きを命じられました。
(たとえば、https://www.atomicheritage.org/history/civilian-displacement-hanford-wa
マヤクの場合、上記のとおり、爆発で10,000人ほどが移住を
余儀なくされました。

* なお、INESによる核事故のスケールでは、このマヤクの惨事は
レベル6 とされています。福島第一とチェルノブイリがレベル7です
から、かなり悲惨な事故だったのですね。
(英語版Wikipediaの”Kyshtym disaster” というページ)

無視された被害者たち

・ 真実も告げられず、「逃げろ」と命じられ、
・ それまでの生活基盤やコミュニティを失う
50-60年後の福島第一のメルトダウンでも似たような悲劇が起きて
しまったのは、皆様もご存じのとおりです。

以上、東西冷戦の西側においても東側においても、
原子炉は本来、「発電機器」ではなく「プルトニウム製造設備」
であったことを見てきました。

では、米ソ以外の原子炉は??
気が重くなりますが、b-3) では英国の初期原子炉を見てまいりましょう。

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