2023年2月
ほぼ2年半ぶりに、ページシリーズ b-x)
に追加アップロードしますね。
上の黒いメニューでは、項目を基本的に
アルファベット順で配列しております。
そのb-3) の最後で私は、
「フランスや中国での核兵器開発と原子炉
の不可分な関係を調べて取り上げることも
できますが、この「不可分性」の実例として
は、これまでの3国で充分じゃないでしょう
か??」
と記し、しばらくb-4) を作成しませんでし
た。フランスや中国での原子炉の導入歴史
を単純に続けてもよかったのですが、
どの国でも結論は同じ、つまり 「核兵器と
核発電は不可分」 ということになるので、
それを繰り返すのもどうかと思ったの
ですね。
さて、それから29か月ほど経過したので、
フランスの核導入の歴史へと進んでも、
マンネリとは思われないでしょう。
また、進もう ・・・
私の、かなり昔のスケッチ
このページで紹介する文書
で、フランスでの核導入の歴史を要約して
紹介してくれている文書を探したのですが、
アメリカのワシントンDCに2002年に
設立された 「半ばアメリカ政府と絡んだ」
NPOであるAtomic Heritage
Foundationのウェブサイトに適切な
文書がありました。
French Nuclear Program – Nuclear Museum
その French Nuclear Programという
文書から、私が抜粋・日本語化して紹介
します。
いつもどおり、< > 内は私からの補足
説明です。
2017年2月付の文書なので、2023年
2月時点での最新の状況 (たとえば、
原発作業員のストライキ、2022年夏の
危険な暑さによる原発排水の流れ込む
河川の水温異常上昇など) には触れて
いません。
申し上げにくいことは、聞くのもつらい~~
私の20分クロッキー
ついでに、非常に申し上げにくいこと
を ・・・
日本語でも、フランスでの核導入をうまく
まとめた文書がないか、探したのです。
見当たりません。やはり、「核発電と
核兵器の不可分性」 という分野を進もうと
思うと、使用言語は英語などが主になり、
日本語だけだとすぐに行き詰まります。
日本語文書でこの問題系を扱っている
ものが、極めて限られているわけです。
だいたい、英語の原子炉関係の論文な
ど読んでいると、proliferation risksと
いう用語に頻繁に出くわします。それ
なのに、そもそも日本語では
proliferation risksを何と呼べばよいので
しょうか?辞書的に 「拡散リスク」 と
呼んだのでは、真意が伝わりませんよね。
Proliferation risksとは、そもそも
核兵器の拡散リスクのことなので。つまり、
「核兵器拡散につながってしまうリスク」
と説明ぽい日本語で言うしかないのです
ね。日本では、この 「不可分性」 の認識
が未発達であることの現れでしょう。
ですから 「やかんをのせたら~~」 では、
今後も外国文献の紹介に努めてまいり
ますが、読者の皆様にも、日本の平均的
高校卒業程度の英語読解能力があるもの
と想定しております。
Tulipにも多様な色がありまして ・・・
1つ1つ違います
私の昔の作品
専門分野ごとに、要求される能力が
TOEICスコアでの目安として、500前後。
TOEIC受験者の平均スコアが610前後だ
と聞いておりますので、決して厳しい想定
ではありますまい。
これが、単に 「読者」 ではなく、世界での
proliferation risksその他の軍事的リスクを
「ご自分の分野」 として突っ込んでいき
たい、情報発信したい ・・・ という方々と
なると、500前後なんてもんじゃなく、
目安として800以上は必要かと感じて
おります。
(;; > O<) / ジョーダンじゃねえ! 英語
なんか分からなくても、日本語読めば
分かるサイトにしろ!
とお考えの皆様は、proliferation risksが
登場しない問題系にお進みくださいな。
Proliferation risksが絡む問題系では、
日本語だけだとすぐに行き詰まります。
でも、日本での原発労働と寄せ場問題、
福島第一周辺の現状や避難してらっしゃる
方々への支援、核ゴミの 「ゴミ箱」 に
されそうな自治体の問題、電力会社と
自治体の癒着 ・・・ などなど、
proliferation risksが登場しない問題系も
様々にございますし、いずれも重要な
問題系です。
核問題とは、実に多様な問題系が絡み
あう複雑系です。それに対するに、誰もが
同じことをやろうとしてきた ・・・ その
代表例が、だれでも参加できるマーチ
(デモ) ・・・ ことが、そもそも間違い
だったと私は考えております。
必要なのは、自分の専門分野を定めた
人たちによる、分業と協力でしょう。
やれやれ~~
私の点描練習
では、French Nuclear Programから
抜粋・日本語化をしてまいりましょう。
今回は、その前半を。
かなり長いので、何回かに分けて
お読みくださいな。
いつもどおり、
私の抜粋・日本語化
< > 内は私からの補足説明
です。
***********************
(冒頭部)
アメリカや旧ソヴィエト連邦の陰に隠れてしまい
やすいが、フランスは1960年に核実験を
行い、世界で4番目の核兵器保有国と
なった。その核開発は第二次大戦の影響で
足踏みをさせられたが、フランスでの初期
核物理研究は、全世界の核開発に対し
重大な意味を持った。そして冷戦時代には、
アメリカが核に関する情報を厳格に機密事項
としていたため、フランスは独自の核
プログラムを展開、核兵器の増強はフランス
の国家的アイデンティティとなっていた。
フランスはさらに核発電の開発でも広く知られ
ており、現在でも電力の過半数を原発で供給
している。
***********************
とりあえず全体の冒頭部は押さえておかない
と、その文書の性格や想定読者などがわかり
ませんからね。
では、次の章に。
***********************
第二次大戦勃発: 1939-1940
フランスの <最初期の> 核開発プログラム
は、アメリカのマンハッタン プロジェクトと同様、
第二次大戦で1939年9月1日にナチス
ドイツがポーランドに侵略を始めたとき、導火線
に火が付いた。だがこのフランスの開発
努力は、当時はまだ原爆製造ではなく、戦争
に必要なエネルギー供給が焦眉の急であった
ことに基づいていた。原爆を製造できる可能
性を認識はしていたようだが、フランスを代表
する科学者たちはフランスが必要とする
エネルギーを供給する解決策としての核
エネルギーに期待を寄せていた。<← 文字
色強調は、私>
核研究を主導したのは、物理学者にして
化学者だったフレデリック ジョリオ
キュリーであった。高名なフランスの科学者
マリー キュリーとその夫イレーネ ジョリオ
キュリーの義理の息子だ。ジョリオ キュリー
夫妻は1935年に、ノーベル化学賞を授与
されている。1937年にはフレデリック
ジョリオ キュリーがパリのコレージュ ド
フランス <フランスで最も権威あるとされる
研究・教育機関> での教職の申し出を受け、
それを受諾した。この学校でフレデリックは
西ヨーロッパで最初のサイクロトロンを建設
した。物理学者のリュー コワルスキーとの
協力で、フレデリックは1939年1月26日に
核分裂を引き起こすことに成功した。放射性
物質の断片を観測、これは連鎖反応を保持
することが可能であろうことを示す現象だ。
・・・・(中略)・・・・
1940年2月、軍備大臣ラウル ドントリーが
ジャック アリエールという銀行家をノルスク
ハイドロ社 <ノルウェーのエネルギー企業>
の工場に派遣、重水を購入せよとの指示を
出した。ジョリオ キュリーはこのとき、
アリエールにカドミウムの入ったチューブを
渡し、「肌身放さず、このチューブを持って
いなさい。重水の容器に何か問題が起きて、
それを空にしている時間もない場合には、
各容器にこのカドミウムを少しづつ入れるの
です。そうすれば、重水は直ちに役に立たなく
なります」 と助言したのだ。(Pflaum 353)
秘密裏に行われたこの購入計画は完ぺきな
成功で、アリエールがパリに戻ったときには、
重水7リッター入りの容器を26個持ってきて
いた。当時は、全世界にあった重水のすべて
であった.
*********************
重水が原子炉で使う中性子減速材である
ことは、「やかんをのせたら~~」の読者の
皆様なら、とっくにご存じですよね。「忘れ
ちゃった」 方は、上の黒いメニューで tw-1)
をクリック!
今も重水はかなり高価ですが、1940年当時
には極めて希少なものだったようですね。
やはり、そんなものを大量に買えという命令は
軍部から出ていたってことです。フランスでも
初めから、原子炉とは核武装のための装置
だった、ということですね。
それと、核問題を学んできた方々はよくご存じ
の通り、カドミウムは中性子を吸収する物質
の1つです。重水は中性子線を発しますので
その危険があった場合の対処としてカドミウム
を渡しておいた、ということですね。
では、次の章へ。
***********************
ナチによる占領期間:1940-1944
実験に必要な物質の調達には成功したもの
の、1940年5月にはドイツ軍がフランスに
侵略、フランスはその重水やウラニウムを
隠蔽せざるを得なくなり、各研究は一旦停止
を余儀なくされた。ベルギーにあった
ウラニウム <当時ベルギーが植民地支配
していたコンゴには、有名なウラニウム鉱山
がありました> もモロッコに移送され、
そこで第二次世界大戦の終戦まで安全に
保管された。重水のほうは、単に「製品Z」と
いう名称で呼ばれ、闇夜にフランス銀行の
クレルモン フェランド支店に、ジョリオ
キュリーの助手実験室助手、アンリ モローが
移送した。ドイツ軍がパリを占拠しそうである
ことが明らかになると、重水はさらに移送
され、まずは <フランス中部にある>
リオームという町の中央刑務所に移され、
さらにイングランドに運ばれた。これを実施
したのはコワルスキーとハンス アルバンで、
S. S. Broomparkという船で運んだ。この
重水は、フランスと英国の科学者たちが
不可欠な実験に用いることになっていたのだ。
自己保持する核連鎖反応が可能であること
を実証する実験である。
・・・・(中略)・・・・
ドイツ軍は特にジュリオ キュリーのサイクロ
トロンに関心を示していた。ドイツは当時、
まだ自国ではサイクロトロンを開発していな
かったためだ。だが、ジュリオ キュリーは実の
ところ、戦争が終わるまで、連鎖反応が現実に
可能だとは知らなかった。彼が重水を用いた
実験を完了する前に、ドイツ軍が攻め込んで
きたためである。そのため戦争中には、
ジュリオ キュリーは主に放射線の及ぼす
効果を研究していた。原子炉の建設のほう
は、一時棚上げとなったのだ。彼はさらに
フランスの反ナチス レジスタンス運動に
参加した。解放闘争の機関にはジュリオ
キュリーは英米同盟軍のアルソス ミッション
<という軍事調査機関> に協力、ドイツの
科学者たちと表面的に協力していたので、
その動向をアルソスに伝えていた。
***********************
もう、「やっぱり」 核エネルギー開発が軍部と
絡んでいたことは、明らかですよね。それも、
フランスの科学者たちが本来は、エネルギー
供給を考えていたにも関わらず。
では、次の章へ。
************************
核プログラムの再開: 1944-1948
フランスが解放されコワルスキー、アルバン、
ジュール ゲロン、ベルトラン ゴールド
シュミットといった著名な科学者たちも
フランスに戻ってきた。そこでジュリオ キュリー
は、できるだけ早期に原子研究を再開すること
を決めた。だが、レスリー グローヴ将軍は
ジュリオ キュリーが共産主義者と絡んでいた
ことについて、懸念を抱いていた。彼が
ソヴィエト連邦に秘密を漏らすのでは、と
心配したのだ。将軍はキュリーとその同僚たち
を監視、彼らのロンドンでの会話を録音する
ことさえしていた。
アメリカ軍が日本に原爆を投下したが、それ
でもキュリーは、フランスの核プログラムは
あくまで核エネルギーの平和利用を追求
すべきだと信じ、揺るがなかった。長崎への
原爆投下の翌日、キュリーはL’Humanité 紙
に記事を発表、「ウラニウム装置には膨大な
エネルギーが秘められているが、それを
ゆっくりと解放すれば、人類の利益のために
現実に利用できる。これは、間違いない事実
だ。私自身は、核エネルギーが平和時に
人類にとって計り知れないほどの利益を
もたらしてくれると ・・・ 確信している」
と断言した。<← 文字色強調は、私>
(Pflaum 416)
ジュリオ キュリーはフランス政府からの出資
を懇願、新たに国家元首に就任したシャルル
ド・ゴールはそれを受け入れた。フランスの
石炭や石油の備蓄が大幅に減少しており、
フランスはまたもやエネルギー源を渇望して
いたためだ。1945年10月18日、原子
エネルギー兵站部門 (CEA –
Commissariat à l’énergie atomique) が正式
に創設された。その使命は、「科学や産業、
国防といった各方面での原子エネルギーの
利用をいう観点から、科学的・技術的研究を
行うこと」 とされた。 (Hecht 58) キュリー
は、その科学技術的作業すべてを監督する
上級コミッショナーに任命された。ラウル
ドントリーは総管理者に命じられ、管理と
財務を任された。
当初からCEAは強い政治的影響力を有し、
閣僚会議の議長の直属機関とされた。
つまり、いずれかの省の下にある機関では
ない。そのため、比較的自律的に動けた。
その本部はパリから4.8㎞ほど南にある
フォール デ シャティヨンに設けられた。
グローヴ将軍は反対したのだが、カナダに
あるチョーク リヴァーという各研究所で
作業経験があるコワルスキー、ゲロン、
ゴールドシュミットは、フランスの各
プログラムの展開についてアメリカ政府と
ある合意を結んでいた。チョーク リヴァー
での研究に関する情報は、これらフランスの
科学者たち自身が関与したものしか、フランス
のプロジェクトには共有してはならない、という
合意であった。CEA は短期間で、次の3つ
の長期的な目標を設定した。重水を減速材
とするウラニウム式原子炉を建設して、
放射性同位体を製造すること。そのうえで、
そうした同位体を使用して大型の原子炉と
核センターとを建設すること。そして、原発を
建設すること。
これら目標のうち第1のものは、1948年
12月15日に達成できた。このとき、フランス
としては最初の原子パイル <旧式の小型
原子炉> が稼働を始めたのだ。ウラニウムを
燃料、重水を減速材とした設計で、午後12時
12分のことであった。これはわずか5kW の
発電を意図したもので、Zoeという略称で
呼ばれた。( Zéro énergieつまりゼロ
エネルギー (この原子炉は、わずかな
エネルギーしか生み出さない意図であった
ので)、Oxydeはウラニウム酸化物、そして
重水Eau lourdeの頭文字を並べたもの)
マンハッタン プロジェクトとは異なり、
CEAの成功は秘密にはされなかった。
フランスのL’Aube という新聞はそれを
「偉大な達成、フランス独力の実績で平和
利用のため、文明社会防衛のためのフランス
の役割を強化する」 と報じていた。ヴァンサン
オーリオル大統領は、「この達成により、
フランスの栄華は一層輝くことになろう」
と断言した。(Hecht 2)
**********************
このキュリー博士の平和利用への願い、
ほんとに残念ながら、後に踏みにじられた
わけですね。フランスは、核兵器を製造・保有
しましたので。
逆に言えば、これほど重要な担当科学者が
平和利用のみを願っていても、結局は
核兵器につながってしまった ・・・
それくらい、核発電と核兵器は密接に
つながってしまっている、ってことです!
では、次の章へ。
**********************
フランス、核の国へ: 1948-1958
Zoe原子炉の成功により、フランスの核
プログラムは急速に進んだ。1949年には、
プルトニウム抽出工場がル ブーシェ
<フランス北部の地名>、に設けられ、
これはZoeからの照射済み核燃料を使用
していた。さらに1952年には、サクレイ
<パリ郊外の地名> に2つ目のプルト
ニウム製造用原子炉が開設となる。
この時点ではまだ、原爆を作るという公式の
計画はなかったのだが、フランスの科学者
たちの間では、自分たちのしていることが
短期間で核兵器に利用されてしまうのでは、
という懸念が急速に広まった。<← 文字
色強調は、私> フレデリック ジョリオ
キュリーは 「明日、我々に戦争のための
仕事をせよという命令が下るなら、我々は
“いやだ!” と答える」 と公言している。
(Pflaum 442) ジョリオ キュリーはさらに、
フランス共産党の協力を得てストックホルム
アピールを広めた。これは <1950年に
採択された> 請願で、核兵器の全面廃止を
求めたものだ。だが共産党は1947年に
ストライキを画策して失敗しており、フランス
全土で反共機運が高まっていた。さらに
1948年には、当時のチェコスロヴァキアで
共産主義者たちによるクーデターがあり、
CEAは1950年にジョリオ キュリーを解雇
した。
1952年には、フランス南部のマルクールと
いう場所に大型のプルトニウム製造工場を
3つ建設する5か年計画が公表された。
CEAは、その副産物として発電ができること
を認識 <← 文字色協調は、私> し、
<電力公社の> Électricité de France (EDF)
との密接な協力を開始した。プルトニウム工場
で発電もして、その電力を活用しようというの
だ。マルクールの最初の原子炉はG-1と
呼ばれ、1956年に臨界に達し、若干の電気
を発電した。それに続いた G-2 と G-3
原子炉は1958年と1959年に竣工、ずっと
発電量が大きく200MW を生み出した。
プルトニウムもかなりの量を製造、これは
後の原爆製造での重要な要素となった。
マルクール工場の建設が始まるまでに、
フランスではかなりの量のウラニウム鉱山
が国内に発見され、採掘がはじまった。
さらに当時はフランスの植民地であった
マダガスカルからもウラニウムを輸入して
いた。Zoé では減速材として重水を使用
していたが、それ以降の原子炉では黒鉛を
減速材として用いた。これは、重水工場を
建てるには費用がかかりすぎるためだ。世界
にはすでに黒鉛炉が存在していた (たとえば
アメリカなどに) のではあるが、フランスの
黒鉛減速・ガス冷却原子炉はフランス産の
材料からフランスの作業で建設したので、
filière francaiseつまりフランスの産業、
フランスの課程と呼ばれた。
国家アイデンティティと核能力とが結びつき、
これはすぐにフランスの原爆開発を進める
推進力となっていった。1949年にNATOが
設立されて以来、アメリカと英国、あるいは
<当時の> 西ドイツとの関係が 「特に密接」
なものとなっており、フランスは長年隅に
追いやられている気分を味わっていた。
そもそも西ドイツがNATOに参加したのは
1955年のことで、フランスはそれに反対
していた。その翌年には、フランスは
さらなる屈辱を味わった。スエズ運河危機だ。
<この下の * を参照> この危機で、英国
とフランスの軍は、エジプトから撤退を余儀なく
された。それに加え、CEAはアメリカさらには
英国の核プログラム用リソースの一部を
保有しており、しかもフランスでは共産
主義の高まりがあって英米はそれを引き
続き懸念していた。そのため英米はフランス
と核関連の情報を共有することをためらって
いた。核エネルギーは国家安全保障の問題
であるだけではなく、地球規模の問題と
なった。特に、植民地を有する諸国ではそう
だった。
フランス政府は核開発プログラム再編する
ための準備的ステップを初めていた。
1956年、ピエール メンデス フランスが
フランス大統領であったとき、ポール エリュ
将軍率いたComité des Applications de
l’Energie Atomique <核エネルギー応用
委員会> がCEAと国防省の間のリエゾン
<連結役> として設立された。CEAと
国防省はさらに覚書に署名、核実験を
いずれ実施するという目標を掲げた。
アメリカの諜報機関が1957年に入手した
情報によると、核爆弾を作れという愛国的
な圧力が強まっていたようだ。同年、
アメリカと英国は自国の核プログラムの情報
をフランスならびに西ドイツとは共有しない
ということで合意した。
************************
なお、Zoeというにはもちろんフランス語での
略称ですが、皮肉なことにギリシャ語ζωη
の音訳にもなっています。生命、生物という
意味で、zooという英語の語源です。キリスト
教聖書 (新約聖書)では、単なる生存を
超えた、救い主からの永遠性ある生命を
表します。それが核プログラムの名前に
なってしまったのは ・・・ 聖三位一体
(Trinity) も、微笑む仏様(Smiling Buddha)
も、さぞお嘆きのことでしょう!
ピンク文字で私が強調した箇所には、よ~く
注目なさってください。キュリー博士のような
重要な地位にあった優れた科学者が核兵器
開発にこれだけ反対してらっしゃったのに、
結局はPu製造は原爆製造につながって
しまったのです。そして発電は、その
「副産物」 だったわけですね。核発電と
核兵器とは、かくも不可分なものなのです。
* スエズ運河危機
それまで、主に英国とフランスのステーク
ホルダー各者がスエズ運河の所有権を
握っていたのですが、この年、エジプトの
当時の大統領ナセルがこの運河のエジプト
国有化を宣言しました。そのため南側の
通路をふさがれてしまったイスラエルが
同年10月、エジプトに侵攻、英国と
フランスはいったん停戦を求めたのですが
無視され、11月には英仏の軍隊もスエズ
運河に攻め入ることになりました。しかし
アメリカ、旧ソヴィエト連邦、国連が英仏に
金融制裁などによる警告を発し、英仏は
撤退することに。なお、イスラエルはこの後
一時的にシナイ半島を占領しました。
とにかく、この結末は英国とフランスに
とっては全くの屈辱で、それまで世界の
覇権者であった両国は栄華を失い、超大国と
いえばアメリカと旧ソヴィエトという時代に
入ったと、世界が認識したのです。
では、次のページ b-5) で、このFrench
Nuclear Programの後半を。いよいよ
核装備の時代になります。大変長い文章
ですが、核発電と核兵器の密接な
つながりを実例で知るうえで、大変重要な
文書ですよね。(そのため、フランスには
複数ページを割くことにしたのです)
キュリー博士が、あれだけ
平和利用にこだわっていたのに ・・・
ああ、なんてこと ・・・
私の、かなり昔の7分クロッキー