マヤクでの爆発

  • As I said below on March 25, I’m abolishing my beaded accessory business
    in several months. Then, I’ll remake this whole website into a new, anti-nuke
    site focused on the “historical inseparability between nuclear weapons and power”.
    The new website is to be written in Japanese since it is targeted at Japanese readers. Until then, I’ll occasionally post some articles about this inseparability
    here.
  • 下の3月25日に述べましたように、あと数か月でこのビーズ アクセサリーのビジネスは廃業します。その際、このウェブサイト全体を新たな反核サイトに作り変えます。そのフォーカスは、
    「核兵器と核発電の歴史的不可分性」にあります。
    その作り変えのときまで、時折ここに、その「不可分性」に関する記事を投稿しますね。
    ご注意: 移行期間中の記事においても、数か月先の新ウェブサイトにおいても、あれこれ
    英語のウェブサイトや書籍からの引用をしますが、その日本語訳は致しません。
    私は翻訳者ではないので、正確な翻訳などできないからです。それと、著作権所有者に無断で翻訳・発表をすると、著作権法上の法律問題も発生してしまいます。できるかぎり、皆様も引用元の原文をお読みくださいね。
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では、そのマヤクでの大事故について。

James Mahaffey という核発電推進派の科学者による、”Atomic Accidents” (Pegasus Books, 2014) という書物があります。
その283-284ページによれば、マヤクの核施設で
・ 1956年、あるタンクにつながる冷却水パイプが破裂したが、地面を掘って故障個所を見つけ修理をするのは大変なので、そのパイプへの給水を止めてほったらかした。
そのタンクの中には放射性物質も多量に含まれ、それを冷却する水が絶たれたことになる。
・ タンクの中で、放射性物質が崩壊熱により高温に達した。タンク内には、硝酸アンモニウムとアセテートも混在していた。(日本語版Wikipediaの「アンホ爆薬」というページも参照)
(一種の爆弾タンクが出来ていて、それが放射性物質の崩壊熱で高温に達したわけですね)
・ 1957年9月29日、それがついに爆発。黒鉛と破片が、大空高く1kmほどまで飛んで行った。

結局、70から80トンほどの放射性物質が放出されたそうです。
近隣住民全員に退去命令が出され、爆発から2年以内に約10,000人が移住したようです。
汚染地域は今では「ウラル東部自然保護区」に指定されていますが、この悲劇の
隠蔽のためであることは見え見えですよね。
同書の265 – 266ページによれば、この事故については長らく隠蔽されており、ソビエト連邦の崩壊後の情報公開で、ようやく明らかになったものです。実際、1960年5月には有名な U-2 というスパイ飛行機がマヤクの上空を飛んで調査をしていたのですが、撃ち落とされたそうです。

隠蔽・・ 軍事機密

そもそもこのマヤク核施設の存在そのものが長らく極秘とされており。そのためこの爆発も
Kyshtum disaster といった名称で呼ばれるようになりました。Mayak という名称が、
長らく知られていなかったわけですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kyshtym_disaster  によれば、マヤクは当時の地図にも
掲載されていませんでした。そこで働く人たちにも、「何の施設なのか」などは極秘とされて
いました。(上記の書物の265ページ)

東西を問わず、軍事活動には秘密が伴うものです。
原子炉とはもともと、その軍事用の設備であり、特に
初期には「最先端兵器技術」のためのものでしたから、
国家機密として覆われてしまうことが普通でした。
(アメリカの Hanford Site も、そうでしたよね)

Hanford の場合、敷地の周辺に住んでいた人々およそ2,000人が、
核施設建設に先立ち立ち退きを命じられました。
(たとえば、https://www.atomicheritage.org/history/civilian-displacement-hanford-wa
マヤクの場合、上記のとおり、爆発で10,000人ほどが移住を余儀なくされました。

* なお、INESによる核事故のスケールでは、このマヤクの惨事はレベル6 とされています。
福島第一とチェルノブイリがレベル7ですから、かなり悲惨な事故だったのですね。
(英語版Wikipediaの”Kyshtym disaster” というページ)

無視された被害者たち

・ 真実も告げられず、「逃げろ」と命じられ、
・ それまでの生活基盤やコミュニティを失う
50-60年後の福島第一のメルトダウンでも似たような悲劇が起きてしまったのは、
皆様もご存じのとおりです。

以上、東西冷戦の西側においても東側においても、
原子炉は本来、「発電機器」ではなく「プルトニウム製造設備」
であったことを見てきました。

では、米ソ以外の原子炉は??
気が重くなりますが、次回は英国の初期原子炉を見てまいりましょう。

About FrancisH

A freelance painter, copywriter, and beading artist
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