英国核武装の紆余曲折、そしてKGBのスパイ

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    site focused on the “historical inseparability between nuclear weapons and power”.
    The new website is to be written in Japanese since it is targeted at Japanese readers. Until then, I’ll occasionally post some articles about this inseparability
    here.
  • 下の3月25日に述べましたように、あと数か月でこのビーズ アクセサリーのビジネスは廃業します。その際、このウェブサイト全体を新たな反核サイトに作り変えます。そのフォーカスは、
    「核兵器と核発電の歴史的不可分性」にあります。
    その作り変えのときまで、時折ここに、その「不可分性」に関する記事を投稿しますね。
    ご注意: 移行期間中の記事においても、数か月先の新ウェブサイトにおいても、あれこれ
    英語のウェブサイトや書籍からの引用をしますが、その日本語訳は致しません。
    私は翻訳者ではないので、正確な翻訳などできないからです。それと、著作権所有者に無断で翻訳・発表をすると、著作権法上の法律問題も発生してしまいます。できるかぎり、皆様も引用元の原文をお読みくださいね。
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    英国の核武装化とそれに伴う原子炉建設の動きは、紆余曲折してました。
    核武装に関する略史は、英語版Wikipedia の “Nuclear weapons and the United Kingdom”
    https://en.wikipedia.org/wiki/Nuclear_weapons_and_the_United_Kingdom
    というページにあるのですが、流れが二転三転した歴史だったので、年表形式で極めて
    簡略にまとめてみます:1939 - 英国のバーミンガム大学で二名の物理学者が、ウラニウム235 を核爆発させる
    には、10㎏程度以下で可能であることを推定。
    * 本来、この発見は軍事利用を前提としたものではなかったようですが、第二次大戦中
    が始まり、連合国側には「ヒットラーが先に新型超爆弾を実用化したら ・・・」という
    強力な不安があり、当然のように軍事利用の努力が始まることになります。
    アメリカは S-1 Project という核兵器開発プロジェクトを開始しましたが、当初は貧弱なものでした。(でも後に、これが有名な Manhattan Project に発展していきます)1940 - この時点では英国の核兵器技術の方がアメリカより進んでいたので、
    英国はアメリカの S – 1 に技術情報を提供。情報交換が進む。1941 - 英国独自の原爆開発を進めるため(カナダも協力)、Tube Alloys
    という局を設立。しかし英国には開発プロジェクトのための
    リソースが不足していた。→ 両国の原爆開発プロジェクトが融合していった。

    1943 - 両国はこの核開発での協力に合意し、Quebec Agreement(ケベック合意)を
    交わす。
    * そうして英国は物理学者や技術者をアメリカに派遣しますが、その中にすでに、
    旧ソビエト連邦のスパイが潜入していました。(後述)

    1945 - 広島と長崎を原爆で破壊。第二次大戦終了。
    * これで、核兵器開発での協力の必要性そのものに、疑問が呈されることになりました。
    英国は「最重要の緊急課題」として、自国の原子炉とプルトニウム抽出との施設の
    新設を承認。

    1946 - アメリカのMcMahon Act(マクマホン法)が成立、協力が解消。
    * 上記のスパイ潜入も、この解消に至る大きな要因であったことは、言うまでもありません。
    英空軍のTedder 参謀長、1957年までに推定で200発の原爆が必要になると推定。

    1949 - 旧ソビエト連邦が、原爆実験に成功。
    * 西側は、あわてます。英国はアメリカとの協力再開に努め、Windscaleでできる Pu とアメリカの濃縮 U235 との交換などを提案したのですが、結局合意には至りません。

    1950 - Windscale Pile 1、稼働開始。

    1951 - Windscale Pile 2、稼働開始。

    1952 - オーストラリア西部の Monte Bello 諸島で、英国が原爆実験に成功。
    それ以降、Blue Danube (青きドナウ)という自国製原爆を実戦配備。

    1957 - 旧ソビエト連邦、史上初の人工衛星「スプートニク1号」の発射に成功。
    * これでアメリカが大いにあわてたのは、有名な話ですね。
    それを機に、米英両国は核兵器での協力を再度模索、アメリカはマクマホン法を
    改正し ・・・

    1958 - ・・・ 英米両国は、相互防衛協定を締結。

    ま、あくまで上記は、かなり概略化した年表です。
    それでも、原子炉と核兵器の不可分な結びつきが窺えますよね。

    スパイが入り込んでいた!

    スターリンは、おバカさんではありませんでした。
    マンハッタン プロジェクトの中枢だった Los Alamos 研究所に、
    少なくても 3人もスパイを潜入させていたのです。

    J. Mahaffey, “Atomic Awakening” という著作の p. 203 から
    かいつまんで紹介すると、

    ・・・ Klaus Fuchs は英国から派遣されてきた物理学者、Ted Hallは
    シカゴ大学の物理学者、David Greenglass は機械技術者だった。
    ・・・ 彼らから集めた情報をもとに、旧ソビエト連邦は1946年、エンリコ
    フェルミのChicago Pile によく似た原子炉を作成していた。Arzamas-75
    という名称だ。・・・

    なお、この3名のスパイのうち、Hall 以外の2名は二次大戦後に逮捕され、
    服役したそうです。Hall の正体が確認されたのはかなり後で、
    1997年のことだったそうです。

    1949年の旧ソビエトによる原爆実験は秘密裏に行われましたが、その
    原爆は長崎を焼き滅ぼしたFat Manに類似したものだったそうです。
    やはり、原子炉と原爆の関連が現れた事実の例ですね。

    なお、「ソビエトのスパイが~~」などと記すと、
    「ゴルゴ13 かなにかの、読み過ぎじゃないの??」とか
    言われそうですが、上述の “Atomic Awakening” は
    核関連の歴史を科学者が記した書物でして、
    スパイ小説でもなんでもございません。
    Webなら、Atomic Heritage Foundation のウェブサイトにも
    Fuchs に関するページがあって、
    https://www.atomicheritage.org/profile/klaus-fuchs
    でご覧になれます。
    BBCのテレビ番組でも以前にFuchsのことを紹介しており、
    https://www.youtube.com/watch?v=FEa1izkc0pw
    でご覧になれます。

    フランスや中国は??

    フランスや中国での核兵器開発と原子炉の不可分な関係を
    調べて取り上げることもできますが、この「不可分性」の
    実例としては、これまでの3国で充分じゃないでしょうか??

    次回からは、イラク、シリア、イスラエル、イラン、北朝鮮、南アフリカ、
    リビアといった諸国での実例を、それぞれかいつまんで
    見ていきたく思います。

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英国の「初期」原子炉

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    英語のウェブサイトや書籍からの引用をしますが、その日本語訳は致しません。
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では、英国の「初期」原子炉なのですが、
ブリテン島の西岸、アイリッシュ海に面する
Windscale Piles – 1, 2 というのが英国最初の実用原子炉でした。
稼働開始はPile -1 が1950年10月、-2 が1951年6月のことでした。
(シカゴ大学の実験用原子炉がChicago Pile – 1 と呼ばれていたように、
Windscale も pile と呼ばれていました。なぜか?たとえば
https://www.atomicheritage.org/history/chicago-pile-1
などにある写真を見れば、明らかですよね)

なお、Windscale という地名は、1981年に Sellafield と改名されています。
そのあたりの事情は、日本語の書籍であれば、秋元健治、「核燃料サイクルの闇」
(現代書館、2006)に解説があります。

で、どんな「原子炉」だったのか??

James Mahaffey, “Atomic Accidents” (Pegasus Books, 2014) という
核事故の歴史を概略した書物のpp。162-163 に、Windscale Piles の
構造図があります。
Webであれば、かなり略式の図が
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Windscale-reactor.png
にあります。

p. 162 の図には water duct なるものがありますが、これは図のすぐ下の
説明にある通り、”The water duct was used to cool off the used fuel as —”
ということですね。つまり、使用済み燃料を冷却するためのものでした。

「え! 冷却水を使っていなかったの??」

はい、原子炉の冷却水システムはありませんでした。
「空冷式」原子炉だったのですね。
「なんだあ、じゃあ水のパイプとかなくて当然だね」と
安心しないでください!
発電用原子炉であれば、原子炉を冷却する水システムが
必ずあって、原子炉で水が高温の蒸気になり、その蒸気を
使って発電用タービンを回します。(今までのところ、
発電用原子炉はすべてそういう仕組みです。なんらかの
水システムで蒸気を発生 → 発電用タービンを回す、
というメカがないと、発電できません!

つまり、Windscale Piles は発電用じゃなかった

ということですね。じゃあ、何のために使っていたのか?
それはもう、たとえば
https://en.wikipedia.org/wiki/Windscale_Piles
のReactor usage という個所をご覧になるだけで、分かります。
Plutonium production(プルトニウム製造) と明記されていますね。

なお、Windscale Pilesは1957年10月に大事故(火災)を起こし、
廃炉へと向かいます。その事故の原因などについては、
上述の “Atomic Accidents” の pp. 173 – 183 を、
周辺地域の放射性物質汚染については上述の
「核燃料サイクルの闇」の第III章を、それぞれ
ご覧ください。レベル5 だったようです。
(https://en.wikipedia.org/wiki/Windscale_fire)

要するに「原爆製造のための施設」

もうお分かりと思いますが、Windscale Piles も
初期原子炉の例にもれず「原爆製造のための施設」
だったわけです。
「原発と原爆が頭の中で結びつく ・・・」のは、
こうした歴史上の事実をわきまえるなら、
むしろ当然のことです。「結びつかない」で
考える方が、事実に反しております。

したがって、Windscaleに至るプロセスには、
英国の核武装計画はもとより、Manhattan Project も
「KGBのスパイ」も関わっていたのですが、
それらについては次回。

 

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マヤクでの爆発

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では、そのマヤクでの大事故について。

James Mahaffey という核発電推進派の科学者による、”Atomic Accidents” (Pegasus Books, 2014) という書物があります。
その283-284ページによれば、マヤクの核施設で
・ 1956年、あるタンクにつながる冷却水パイプが破裂したが、地面を掘って故障個所を見つけ修理をするのは大変なので、そのパイプへの給水を止めてほったらかした。
そのタンクの中には放射性物質も多量に含まれ、それを冷却する水が絶たれたことになる。
・ タンクの中で、放射性物質が崩壊熱により高温に達した。タンク内には、硝酸アンモニウムとアセテートも混在していた。(日本語版Wikipediaの「アンホ爆薬」というページも参照)
(一種の爆弾タンクが出来ていて、それが放射性物質の崩壊熱で高温に達したわけですね)
・ 1957年9月29日、それがついに爆発。黒鉛と破片が、大空高く1kmほどまで飛んで行った。

結局、70から80トンほどの放射性物質が放出されたそうです。
近隣住民全員に退去命令が出され、爆発から2年以内に約10,000人が移住したようです。
汚染地域は今では「ウラル東部自然保護区」に指定されていますが、この悲劇の
隠蔽のためであることは見え見えですよね。
同書の265 – 266ページによれば、この事故については長らく隠蔽されており、ソビエト連邦の崩壊後の情報公開で、ようやく明らかになったものです。実際、1960年5月には有名な U-2 というスパイ飛行機がマヤクの上空を飛んで調査をしていたのですが、撃ち落とされたそうです。

隠蔽・・ 軍事機密

そもそもこのマヤク核施設の存在そのものが長らく極秘とされており。そのためこの爆発も
Kyshtum disaster といった名称で呼ばれるようになりました。Mayak という名称が、
長らく知られていなかったわけですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kyshtym_disaster  によれば、マヤクは当時の地図にも
掲載されていませんでした。そこで働く人たちにも、「何の施設なのか」などは極秘とされて
いました。(上記の書物の265ページ)

東西を問わず、軍事活動には秘密が伴うものです。
原子炉とはもともと、その軍事用の設備であり、特に
初期には「最先端兵器技術」のためのものでしたから、
国家機密として覆われてしまうことが普通でした。
(アメリカの Hanford Site も、そうでしたよね)

Hanford の場合、敷地の周辺に住んでいた人々およそ2,000人が、
核施設建設に先立ち立ち退きを命じられました。
(たとえば、https://www.atomicheritage.org/history/civilian-displacement-hanford-wa
マヤクの場合、上記のとおり、爆発で10,000人ほどが移住を余儀なくされました。

* なお、INESによる核事故のスケールでは、このマヤクの惨事はレベル6 とされています。
福島第一とチェルノブイリがレベル7ですから、かなり悲惨な事故だったのですね。
(英語版Wikipediaの”Kyshtym disaster” というページ)

無視された被害者たち

・ 真実も告げられず、「逃げろ」と命じられ、
・ それまでの生活基盤やコミュニティを失う
50-60年後の福島第一のメルトダウンでも似たような悲劇が起きてしまったのは、
皆様もご存じのとおりです。

以上、東西冷戦の西側においても東側においても、
原子炉は本来、「発電機器」ではなく「プルトニウム製造設備」
であったことを見てきました。

では、米ソ以外の原子炉は??
気が重くなりますが、次回は英国の初期原子炉を見てまいりましょう。

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旧ソビエトの初期原子炉での Pu 製造

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マヤク核施設

http://scienceandglobalsecurity.org/archive/sgs19diakov.pdf
にある The History of Plutonium Production in Russia (ロシアでのプルトニウム製造の歴史)という論文から、PLUTONIUM PRODUCTION(プルトニウム製造)という個所の手短な紹介をします。

Mayak Production Association (Chelyabinsk-65) という個所をご覧いただくと、マヤクの核施設にはプルトニウム製造用原子炉 (production reactors) が5基あったと、冒頭に明記されています。
このマヤク核施設ですが、ウラル東部地域にあったもので、1945年から48年にかけて大急ぎで建設されたもののようです。しかし、長らく「秘密都市」とされていたので、詳細は私には分かりません。(https://en.wikipedia.org/wiki/Kyshtym_disaster 参照。日本語版Wikiでは、「マヤーク核技術施設」)

原子炉A

そのマヤクでの最初の原子炉「原子炉A」については、この論文の Reactor A の箇所に説明があります。1948年6月に稼働開始、1987年6月まで稼働を続けたそうです。(Table 1)
論文のP33上部にあるように、当初1日あたり0.1kg のPu を製造でき、ウラン燃料1トンに中性子線を浴びせて平均 o.1kg のPu を作ったようです。
最初に金属 Pu を製造・分離したのは、1949年4月16日のことだったとあります。
旧ソビエト連邦による最初の原爆実験RDS-1 が実施されたのが 1949年8月29日のことで、
セミパラチンスク(現在のカザフスタンにあります)でのことでしたから、スターリンがいかに
原爆開発を焦っていたか分かりますよね。

マヤクでの、その他の Pu 製造原子炉

AV原子炉と呼ばれたものは3基あって、1950年から52年にかけて稼働を開始しました。
それぞれ稼働初年には、1日につき260g ほどのPu を製造したようです。
またAV-3 原子炉はPu だけではなくトリチウム(水爆に使われる物質)も製造しました。

またAI-IR原子炉も1952年に稼働を開始しましたが、これはもともと
トリチウム製造用に設計したもので、Pu も作りましたが原爆に使えない同位体
(Pu 240)の含有量が多かったため、兵器にはその Pu を使わなかった、とのことです。

この論文にはマヤク核施設にあったその他の原子炉も紹介されていますが、
4基あった重水型原子炉(後日、説明します)のうち最初のものは
本来 Pu 製造用に設計されたものでしたが、1953年にウラン233や
コバルト60、トリチウムの製造に転用されたそうです。(発電では、なかったのです)
残る3基も、兵器用トリチウムなどが用途でした。

ずっと後に1979年6月、軽水炉も稼働を開始しました。「軽水炉」というと
我々は「発電」を連想しやすいのですが、トリチウム製造が用途だったそうです。
やれやれ~~

その他の核施設

トムスクー7や鉱業・化学コンビナートにもPu 製造用原子炉があったのですが、
もう充分に怖い話が続いたので、さらにお知りになりたい方はこの論文本文を
ご覧ください。

要するに ・・・

東西冷戦のいずれ側においても、最初期の原子炉とは
発電設備などではなく、原爆に使う Pu の製造設備だったことが、
ご納得いただけましたでしょうか?

なお、マヤク核施設は1957年に大事故を起こしており、
次回はそれを短く紹介します。

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では、その論文

ではその、http://scienceandglobalsecurity.org/archive/sgs19diakov.pdf
にある The History of Plutonium Production in Russia (ロシアでのプルトニウム製造の歴史)という論文を手短に見てまいります。

冒頭の記載によれば2011年の発表で、ロシアの Center for Arms Control, Moscow Institute of Physics and Technology, Moscow Region (直訳すると、「モスクワ物理学・技術研究所、
モスクワ地区、軍縮センター」)のアナトリ ディアコフという方の著作です。

本文の最初の段落に “For almost 50 years, the production and processing of weapon
fissile materials was the primary mission of the Soviet nuclear complex. The cloak
of secrecy on all nuclear weapons activities was lifted in 1995. However, the Soviet
Union did not declare the amount fissile-material that it produced for military purposes, and —” とありますよね。
つまり、
・ 旧ソビエトの核関連体制の主な仕事は核兵器用の核分裂性物質の製造であった
・ 機密事項として覆われていたが、1995年に公開が許可された
・ だが、軍事用に製造した核分裂性物質の量については、旧ソビエトは
発表していない
ということです。

ですから、この論文で取り上げているプルトニウム製造量などは、
推定によるものです。

そうした導入の後で、Design and Operation of the Production Reactors
(プルトニウム製造用原子炉の設計と稼働)という部分が続き、それによれば
ソビエト連邦には黒鉛減速・水冷却式のプルトニウム製造用原子炉が14基
あって、
・ 6基がウラル地区の「マヤク」という施設に
・ 5基がシベリアのセヴェルスク(以前は「トムスク – 7」と呼ばれた)
・ 3基がゼレズノゴルスクの鉱業・化学コンビナートに、
それぞれあったそうです。

合計14基のうち、
・ 12はPu 製造用
・ 2はトリチウムその他の同位体の製造用
だったとのこと。

勘の良い読者の皆様なら、「ははあ、1954年のオブニンスク稼働開始の
前に、かなりの Pu 製造用原子炉があって、それで1949年の原爆実験を
したのだな」と、お察しのことでしょう。

では次回、実際のPu 製造の様子をこの論文から見てまいりましょう。

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では、旧ソビエト連邦では?

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アメリカのHanford Site 以外での「初期」原子炉(1943年から、1950年代末あたりまで)を
いろいろ探っていくこともできますが、Hanford だけでも
充分に背筋が凍りついたことと思います。

ここでは「初期の」原子炉とは何のためのものだったのかを探っている
わけですから、「冷戦」の相手であった旧ソビエト連邦に移りましょう。

インターネットでサーチしてお調べになる場合、production reactor という
フレーズを入れることをお勧めします。
そうしないと、どうも「世界初の商用原発だったオブニンスク原発」
(1954年に運転開始)の話がサーチ結果に表れやすいのですね。

オブニンスクは「平和利用の皮きり」として当時は大いに称賛され、
世界各国の指導者たちが視察に訪れたそうです。
もっとも、オブニンスクの原子炉は後のRBMKという黒鉛減速原子炉
の前身でして、チェルノブイリの大惨事にもつながっていくのですが~~

それと、旧ソビエト連邦はすでに1949年8月に、同国としては
始めての原爆実験をセミパラチンスクで実施していました。
(これは、「セミパラチンスク」でサーチすれば、すぐに出てきます)

その原爆はRDS-1 という名前で、長崎で人々を焼き殺した
Fat Man に類似したものでした。つまり、何らかの形で
旧ソビエト連邦も、1949年までには兵器グレードの Pu を
製造していたことになりますよね。
(そこには、実はKGB のスパイ活動も関与していたのですが、
それはまた後日)

https://en.wikipedia.org/wiki/RDS-1  をご覧になれば
Plutonium for the bomb was produced at the industrial complex Chelyabinsk -40
とありますから、その Pu はチェリヤビンスク – 40 という施設で
製造していたようです。
当然、そこには何らかの「プルトニウム製造用原子炉」(production reactor)が
あったはずです。

そんなわけで、production reactor にフォーカスを絞って
サーチしてみると、
http://scienceandglobalsecurity.org/archive/sgs19diakov.pdf
に The History of Plutonium Production in Russia という論文が
見つかると思います。

次回、この論文を手短に紹介いたします。

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Hanford のB以外の原子炉

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    まず、Hanford Site の B原子炉以外の原子炉から見てまいりましょう。
    発電するためのものだったのか?それとも ・・・

    これは、すぐ下の記事でも紹介した米国エネルギー省の Hanford Site ウェブサイトで、About Us –> Projects & Facilities というページをご覧になれば、すぐに分かることです。

    たとえば、B Reactor のすぐ次にあるサブ項目、C Reactorをクリックしてみると:

    — was built in the late 1940’s and early 1950’s, and started operations in 1952
    とありますので、1940年代末から50年代初頭にかけての建設だと分かりますね。
    さらに、
    — was the first of Hanford’s nine plutonium production reactors to be placed in Interim Safe Storage —
    とあります。Interim Safe Storage というのは廃炉後の原子炉の保管方法の1つです。
    その保管対象となる「プルトニウム製造用原子炉」が9基あって、C がその最初のものだった、というわけですね。

    なお、https://en.wikipedia.org/wiki/Columbia_Generating_Station にあるように
    現在ではColumbia Generating Stationという商用の核発電所もHanfordにあるのですが、これは1984年に発電を始めたものです。
    つまり、それ以前にHanford にあった原子炉はいずれも、「発電用」じゃなかったってことですよね。つまり、Hanford とは基本的に、「原子爆弾用プルトニウムの製造施設」だったわけです。

    この「死と破壊のための施設」にあった、その他の原子炉を同ウェブサイトで調べてみても、同じことをすぐに確認できます。
    たとえば H Reactorというサブ項目をクリックすると:
    — was the first reactor to be built at Hanford after World War II. It became operational in October of 1949 —-
    と記載されていますので、二次大戦の終了後、1949年10月に稼働を始めたことが分かります。
    さらに、
    H Reactor was built as tensions grew between the United States and Russia, ultimately ushering in the Cold War. With the continued strain on relations between the two superpowers, H Reactor was followed by DR, C, K-West, and K-East Reactors all being built within a five and a half year period.
    というわけですから、まさしく「冷戦」の申し子、東西緊張の高まる中で建設された「原爆用」原子炉であったことは明らかです。これに続き、DR, C, K-West, K-Eastと次々と「原爆用」原子炉が設けられたわけですね。やれやれ ・・・・
    Hanford Site以外のアメリカの「初期」原子炉を紹介することもできますが、読者の皆様はすでに上記だけで、充分に背筋が凍りついてらっしゃるものと想像します。

    ですから次回は、その「冷戦」の相手、旧ソビエト連邦の初期原子炉を見てまいりましょう。

    * 私自身も、上記を書いていて背筋が冷たくなりました。現在のような社会状況ですので、ウイルスをキャッチしないように気を付けます!

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では、Hanford Siteとは??

  • As I said below on March 25, I’m abolishing my beaded accessory business
    in several months. Then, I’ll remake this whole website into a new, anti-nuke
    site focused on the “historical inseparability between nuclear weapons and power”.
    The new website is to be written in Japanese since it is targeted at Japanese readers. Until then, I’ll occasionally post some articles about this inseparability
    here.
  • 下の3月25日に述べましたように、あと数か月でこのビーズ アクセサリーのビジネスは廃業します。その際、このウェブサイト全体を新たな反核サイトに作り変えます。そのフォーカスは、
    「核兵器と核発電の歴史的不可分性」にあります。
    その作り変えのときまで、時折ここに、その「不可分性」に関する記事を投稿しますね。
    ご注意: 移行期間中の記事においても、数か月先の新ウェブサイトにおいても、あれこれ
    英語のウェブサイトや書籍からの引用をしますが、その日本語訳は致しません。
    私は翻訳者ではないので、正確な翻訳などできないからです。それと、著作権所有者に無断で翻訳・発表をすると、著作権法上の法律問題も発生してしまいます。できるかぎり、皆様も引用元の原文をお読みくださいね
    ****************************************************************************

    では、Hanford Site とは??

    Hanford Site について下の3月28日の記事で言及しましたが、これはアメリカの西海岸
    ワシントン州の僻地にあった広大な核施設でした。(現在は稼働しておらず、除染が進んでいるそうです)

    賢明なる読者の皆様がもうお察しのとおり、マンハッタン プロジェクトの一環となった施設でした。アメリカ政府のDOE(エネルギー省)によるウェブサイトが
    https://www.hanford.gov/
    にあります。

    そのメニューで About Us –> Hanford History のページをご覧くだされば、この核施設の略史が分かります。
    さらに同じくAbout Us で Projects & Facilities のサブ項目 B Reactor を選ぶと、B Reactor に関する解説があります。
    その冒頭部だけお読みになってもお分かりのとおり、B Reactorは
    ・ マンハッタン計画の一環であったこと、
    ・ プルトニウム製造に使われたこと、
    ・ その作ったプルトニウムを有名なTrinity Test という原爆実験に使い、さらに
    長崎で人々を大量虐殺した原爆にも用いたこと (まあ、やはりというか、
    アメリカ政府のウェブサイトですから、— to end World War II という但し書きが付いて
    いますけどね)
    を、アメリカ政府が今では認めているわけですね。

    さらに Hanford History のページの World War II Era の段落にある通り、
    この施設が具体的に何のためのものなのかは、従業員たちにも一般市民にも知らされていませんでした。いわば、この施設は一種の「秘密都市」だったのですね。

    要するに世界最初の「原子炉」とは、
    ・ マンハッタン プロジェクトという極秘の原爆開発計画の一環として、
    ・ Hanford Site という秘密都市の中で、
    ・ 建造されてPu を製造し、
    ・ そのPuが長崎で多数の方々を焼き殺した
    ということですね。それを、今ではアメリカ政府も認めているわけです。

    では、B Reactor 以外の「初期の」(1943年から、1950年代にかけて)原子炉は、どのようなものだったのでしょうか? それを、次回取り上げましょう。

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「歴史的に明らか」なのですが~~

* So, from this onwards, until I remodel this whole website,
I’ll occasionally post some things about the “inseparability
between nuclear weapons and nuclear power (reactors)”,
in Japanese.
Needless to say, my intention is to bring together the
“anti-weapon camp” and the “anti-power camp” of Japan.

* そんなわけで、今日から始めて、私がこのサイト全体を
改装する日まで、「核発電(特に原子炉)と核兵器の
不可分性」について、時折ここに日本語の記事をアップロードする
ことにします。
狙いはもちろん、日本の「反核兵器」運動と「反原発」運動の
相互協力や合流などを求めていくことにあります。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

歴史的には、つまり今までの事実を見る限りは、
「核発電(特に原子炉)と核兵器の不可分性」って、
明らかなのですね。

具体的な過去の事例を取り上げましょう。

「世界で最初に臨界(核分裂が維持される)に達した
原子炉って、どこのなんという原子炉だったのか?」

日本語のWikipediaを見るだけでも分かるように、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%AB1%E5%8F%B7
Chicago Pile – 1 という原子炉でした。アメリカのシカゴ大学にあったもので、
初臨界は1942年12月のことでした。

このChicago Pile – 1 は翌年、マンハッタン計画に組み込まれ、
ワシントン州のHanford Site にChicago Pile – 1 を大型化した
「B原子炉」が建設されました。

Chicago Pile – 1 も{B原子炉」も、発電設備を伴っておりません。
発電目的では、なかったのです。
では、何のためのB原子炉だったのか??
Pu 239 (プルトニウム 239)製造が、目的だったのです。
では、「B原子炉」で出来た Pu 239を、何に使ったのか?
Fat Man の核分裂材料となり、長崎で数えきれない人々を
焼き殺したのでした。

「原子炉」の起源とは、そもそも上記のようなものだったのです。

ところが。2011年頃の反原発集会などで、Chicago Pile – 1 という
名前すらご存じない方々と出くわし、驚いたことがありました。
別に、そうした方々のことをバカにしてるんじゃ、ありませんよ!

上記のような過去の事実を見る限り、(少なくても今までの原子炉による)
核発電を「平和利用」と呼ぶのは ”まやかし” に過ぎないのですが、
少なくても日本では「平和利用というまやかし」がまかり通っていたのですね。
そのため、「反核兵器」陣営と「反核発電」陣営の分離が生じ、
この分離が2011年になっても作用していた、と見るべきでしょう。

そう見ているのは、何も私だけじゃありません。
たとえば、勉誠出版の「終わらないイラク戦争」(2013年3月20日)に
収録されている、森瀧春子さんという方の「核開発がもたらしたもの
― 核と人類は共存できない」という文章のP178を見ますと、
「1956年頃から、米国とそれに追随推した日本の政府・大資本により喧伝された
「原子力の平和利用」の夢、・・・ 「軍事利用」と「平和利用」は別ものだとする
レトリックに、平和運動も含めて、おおむね絡めとられてきた ・・・」
とあります。

おそらく森瀧さんも、『「軍事利用」と「平和利用」は別ものだ』という
まやかしが、平和運動などの現場でもまかり通っている現実に、
かなり悩まされたんじゃないかと想像しています。

ついでながら、2019年2月の経団連の中西会長による
「原発と原子力爆弾が頭の中で結びついている人に『違う』ということは難しい」
という発言も、では上述のような歴史上の事実をどう理解すれば良いのか、
説明を加えるべきでしたね。(そんな説明ができるので、あれば)

もっと言えば、この「頭の中での結び付き」をとことん否定したいのであれば、
中西さんの会社で、従来の原子炉を使わない新型の ”原子力発電技術” を
開発してから、上記の発言をなさるべきでした! (そんな開発ができるので、
あれば)

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新しい反核ウェブサイトは、日本語です / The coming new anti-nuke website is in Japanese

Dear friends,

Just below, I said I am currently preparing (learning and researches) for
a new anti-nuke website, which I plan to launch in several months.

This coming new website is in Japanese, not bilingual in English and Japanese.
Why??

Because there has been a strange division inside the anti-nuke movements and organizations in Japan. I’m not alone in pointing out this unwanted division.
Some other activists, authors, critics, etc. have also pointed that out.

What division?? Separation into an “anti-nuclear-power” camp and an
“anti-nuclear-weapon” camp.
In North America, for instance, it is easy to find organizations opposed to both.
Over here in Japan, many anti-nuclear-power groups chant “No to nuke power”,
but often do not shout out “No to nuclear weapons.” And vice versa.

This strange division is quite illogical to me — the historical reality shows us
that the “power and weapons” have been distinguishable from each other but never separable.

So, I intend to set the planned new website’s focus on this “inseparability”.
Since this is a focus chosen against the Japanese situation, the new website is to be
in Japanese.

I’d appreciate your understanding of this.

みなさま、

すぐ下の記事で私は、新しい反核ウェブサイトの準備(学びと調査)を、現在進めていると
申しました。数か月後のオープンになる予定です。

その新しいウェブサイトは、英日のバイリンガルではなく日本語だけになります。
なぜか??

それは、日本での反核運動には伝統的に、奇妙な分離が見られるからです。
この不必要な分離について問題指摘をしているのは、私一人ではありません。
活動家や著者、批評家などで、この問題を指摘してらっしゃる方々もいらっしゃいます。

どういう分離なのでしょう?一言でいえば、「反原発」陣営と「反核兵器」陣営とに
分離しちゃっているんですね。
たとえば北米であれば、両方に反対している団体を見つけるのは容易です。
ところが日本となると、「反原発」を叫ぶ団体はあまり「反核兵器」を主張していなかったりします。
その逆もしかり。

この奇妙な分離は、私には事実に対応していない動きに見えます。
歴史上の事実として、「核発電と核兵器」とは区別こそできても、決して相互から
切り離すことはできない存在でした。

そこで私は、準備中の新しいウェブサイトのフォーカスを、この「不可分性」に合わせる
ことにしました。したがって、新ウェブサイトは日本語となります。日本社会に特有の
現象を問題にしているからですね。

皆様のご理解をお願いいたします。

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