nd-6) (Nuclear deterrence) 「正気」が崩れると、核抑止は ・・・
2025年10月
世にいう「核抑止」には、いくつかの前提があります。その前提が崩れると、核抑止はもちろん成立できません。
たとえば、MADがその良く知られた前提の1つですね。Mutually Assured Destruction (相互確証破壊)。
核攻撃を実施 ⇒ 相手国も核で報復 ⇒ 相手もこちらもぶっ潰される ⇒ だから、やめとこ
という思考を、敵国の指導層がするものと想定しているわけですね。敵にそう考えさせるためには、こちらが充分な核武装をしていることが必要 ⇒ だから、想定敵国に核攻撃をさせないために、我が国も核武装せねば
ってわけです。
つまり、「核攻撃をさせないために、もし核攻撃をしてきたら、こちらも報復で核攻撃するぞ」という、自己矛盾を孕んだゲームのようなものです。しかも敵国指導層にMADを真剣に認識させることが必要なので、核抑止とは結局、一種の心理ゲームになります。
相手国の指導層が「まとも」でないと~~
「MADになりえるから、核攻撃はやめとこ」という決定を下すためには、相手国の指導層が冷静な判断を下せることが前提になりますよね。
でも、現実には今後もずっとすべての核保有国の指導層が、「まとも」であるという保証など、どこにあるのでしょうか??
一例として、最先端のミサイル防衛システムを配備した国の指導層が、「わが国にはこれだけ優れたミサイル防衛システムがある。敵が核兵器でこうげきしてきても、すべて撃退できる」などと考えてしまったら??
そんな近未来の迎撃システムを想定せずとも、すでに1962年10月、世界はアメリカ vs 旧ソヴィエト連邦の核戦争の、一歩手前というより半歩手前にいました。詳しくは、上の肥大化した(スイマセン!)黒いメニューで nd-3) をご覧くださいな。「* キューバ ミサイル危機:」という段落です。
すべての核保有国指導層が将来も冷静・まともであるという保証はどこに??
言い換えれば、核抑止はその前提が崩れて崩壊してしまう危険性を抱えたソリューションに過ぎないのですね。
で、その核保有国指導層の心理的な信頼性に疑問を呈する論考が、専門家たちから公表されています。
その1つ、John Borrie博士によるHuman Rationality and Nuclear Deterrence(人間の理性と核抑止)という論考から、一部だけ要約日本語化で紹介します。
読める方は、元の英語テキストをぜひお読みください:
Perspectives on Nuclear Deterrence in the 21st Century | Human Rationality and Nuclear Deterrence
ロンドンに本部のあるChatham House(正式には、The Royal Institute of International Affairs)というシンク タンクがあり、そのウェブサイトにPerspectives on Nuclear Deterrence in the 21st Centuryというセクションがあります。2020年12月11日付のセクションなので、ウクライナ戦争のことなどは言及がありません。(2020年12月から今までの間に、状況はさらに悪化したともいえます、嗚呼!)
そのセクションの収録論考の1つとして、このHuman Rationality and Nuclear Deterrenceがあります。
Borrie博士は、国際安全保障プログラム担当のアソシエート フェローという研究員をしておられたそうです。
なお、Chatham Houseに対してはエリート主義的だとの批判がありますが、この論考では特にそれを感じないのですが、いかがでしょうか?
では、いつもどおり< >内は私からの補足説明です。
******************************
イントロ
人間の信念体系はすべてそうだが、核抑止という信念も各種の前提が絡み合って成立している。その1つが、意思決定をする人たちが自分たちの優先順位を順序付け、それに従って行動できる、という前提だ。 ・・・・ 冷戦時代には終始、アメリカと旧ソヴィエトの指導層は冷静に判断していたので、いろいろな危機はあったものの、核の業火が燃え上がることはなかった、とされている。
現在では、冷戦時代を形成したものとは異なる力学が作用している。国際的な安全保障をめぐるせめぎ合いの中では多極化が進行しており、さらに新型の戦略兵器が登場しており、核抑止と戦略的な安定性との従来の理解に変化を迫っている。抑止能力としての核兵器を強力に支持している人たちの中にすら、近年はその効力について疑いを表明している。さらに最近の科学的発見からも、人間が利益に合致した合理性に従うという能力について、疑問が増大している。すると、どのような形態であれ核抑止の実践にとって、実に深刻な影響を結局はもたらすことになる。本章では、こうした合理性に関わる問題を取り上げる。
そもそも核抑止とは何か?
抑止とは何かという定義には多様なものがあるが、その根底にある意味としては、他社に苦痛を与えるぞという脅迫によって警戒を引き起こそうとする、という行為がある。この文脈では、核兵器の使用という脅迫だ。ただし、抑止と核兵器とは同義ではない。 抑止の手段には、各種ある。 —- アメリカも旧ソヴィエト連邦も、MADという概念を全面的に受容していたわけではない。さらにアメリカは、ミサイル防衛のような新型技術の探求をやめはするまい。そうした技術はいずれ、核抑止を超えていく可能性がある。
—-だが、核抑止の根拠となる理論は核兵器の発明以前からあったわけではないし、発明と同時に考案されたわけですらないという事実を覚えておく必要がある。そうではなく核抑止の理論は、核戦争が起きたら~という存在に関する脅威という現実世界の脅威への対応として考案されたものだ。. —- <アメリカと旧ソヴィエトという>超大国は相手に対し核を使用する用意を整えていたのだが、核戦争は破局的な結果を招くのでThe paradox was that each superpower prepared for the use of nuclear weapons 極めてリスクが高く、回避するに越したことはないとの認識は世界に広まっていた。ここに、一つのパラドックスがある。核兵器をめぐる論争においては、<核抑止を肯定する>理論とこのパラドックスとがずっと緊張関係にある。冷戦時代には核抑止と脅威のバランスとに関する主な懸念問題の1つとして、核に関する誤算というものがあった。.
そうはいっても、核抑止の目的とは核の不使用であることに違いはないつまり、核抑止とは本当に核を使うぞという危険性があって、はじめて成立するのだ。<実際の歴史では>長年核兵器が使用されなかったため、核抑止は継続可能だという認識が固まってしまった。核削減があまり信頼できそうにないと思われていた時代には、特にそうであった。この核抑止と非使用との間にある明らかな関係は、それから出現した核拡散防止のための基準によって、さらに強化された。つまり、このプロセスにおいては、冷戦終結後に環境が変化しても、核兵器を維持することは合理的なこととみなされたのだ。そのため、核抑止を長期的に安定化させることなどできるのかについて、不確実性が増幅したのだ。
——
—- 利益に見合った合理性という想定には大きな欠陥があり、そうした批判がこのところの核をめぐる論争では登場している。 —-
—–
ストレスが強い状況あるいは危機的な状況における合理性と人の行動の頸以降に関して、新たな理解が登場している。それによれば、 (a) 人の優先順位というものは固定されてはおらず、安定してすらいないことがよくある。 (b) 人間の理性は、思考を左右する任地上のバイアスや制約の影響を受け、しかも当の本人たちはそれに気づいていない。複雑な、あるいは危機的な状況においては、特にそうだ。 (c) 人間は確立という者を直感的には把握できないことが多い。こうした欠陥を合わせると、核抑止の前提になっている、敵国と自国の意思決定担当者たちが危機的状況においても共通の理性的な思考を共有できる、という想定に疑問を呈さざるを得ない。
—-
— そうしたバイアスの多くに共通してみられるテーマとして、既存の願望や信念を支持するように物事を解釈してしまいやすいのだ。そのため、実際に核の絡んだ危機が発生した場合、敵対しあう両国が相手国の優先順位や行動を適切に予想できるだけの見方を充分に共有できるという想定は、必ずしも現実的ではないのだ。核に関する意思決定を下すエリート層が孤立している場合には、この問題は特に危険となる。そうした国の一例として、北朝鮮がある。北朝鮮の指導層にとっては、権力を失うくらいなら、核兵器を使用する方が良いのかもしれない。
************************
そもそも、「心理ゲーム」であるなら当たり前のことですが、人間の心理という ♪ La donna e mobile ~~~ ♪ (ヴェルディの”リゴレット”にある ”女心の歌”)的なものに、地球上の殆どの生命を左右する巨大な問題が依存してしまう ・・・ そんなでたらめなことが、たかが80年ほど続いているからといって、当然のように見なされているという現状そのものが異常です。
結局、核兵器と核発電とは、廃絶するしかありませんね。



